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今、ここから見える世界

2018年7月21日夜、昭和20年7月28日に起きた米軍艦載機(戦闘爆撃機)による「大山口列車空襲」を題材にした『演劇集団あり』による演劇「昭和二十年、夏。」(作・演出:添谷泰一氏)を観ることができた。場所は、とりぎん文化会館リハーサル室だった。

まず、襲撃された時の列車の情景が劇によって描かれた。列車に乗り合わせた大山口駅の駅長の娘の友人が「案内人」として、劇の中から飛び出してきて、全体を通じて時おり解説をしてくれた。

襲撃の悲惨さがまず描かれる。それぞれのセリフから、血吹雪や、バラバラになった遺体や状況などが想像される。

学生や看護士、傷痍軍人、駅長の家族、友人、動員されていく人々などが登場する。

憎しみをあおるような過剰な、感情的な演出は感じられなかった。

場面が変わり、事件の24時間前のそれぞれの人間模様が描かれるシーンが続く。

笑いあり、恋愛あり、子どもの出産や、地域での様子や、当時の日常の風景が劇を通じて映し出される。

それぞれの思いを乗せ、列車に乗り込むところで、ナレーションとともに劇が終わる。

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「人間は、こんなに優れた存在なのに、友人に成り得たかも知れない人と戦い、殺し合う。戦争のない世界がないのは、なぜなんだろう。」

このセリフは劇中で出てきたものだ。

そうだなぁ、そう思う。なぜなんだろうか。

現代の日本も、自分の意志で考えて、自由に生きていると言えるだろうか。

利害関係で忖度したり、まわりに流されていたりするんじゃないだろうか。

縛られている意識があまりないというのは、実は今も当時と同じように危険なんじゃないだろうか。

一人ひとり、感じることは違う。それぞれの世界があっていい。

「お国のために」と傷を負ったために「戦友を残して、生きて帰ってきてしまった。」と悔やむ傷痍軍人を前に、「いったい国ってなんなの?」と叫んでしまう看護士。その軍人に恋をし、「生きてほしい」という切実な願いをぶつける。

人類はずっと戦争をしてきた、というのも、刷り込まれたイメージじゃないだろうか。

兵士が局地的に前線で戦うことはあっても、市民が犠牲になる大量殺戮を始めたのは、ごく近代なのではないか。

これは、ぼくが思うことで、劇中にそのようなイメージが描かれているという意味ではない。

戦争は、確実に止めることができるはずだ。

その強い意志がまずあって、意識を入れ替える必要があるのだと思う。

新編 銀河鉄道の夜 (新潮文庫)

劇中に、中学生が恋するいつも本を読んでいる女の子とツルゲーネフの「初恋」や宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」について語るシーンがあった・・・。

この作品は、その後も何度か鳥取県内各地で公演されるようだ。8月5日(日)昼間、倉吉市(エキパル倉吉 多目的ホール)/8月19日(日)昼間、日野町(日野町山村開発センター)/8月19日(日)夜、伯耆町(鬼の館 多目的ホール)/8月26日(日)昼間、境港市(夢みなとタワー 多目的ホール)/8月26日(日)夜、米子市(米子市淀江文化センターさなめホール イベントホール)。

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届かないモノ、見えないモノ

今、この瞬間にも宇宙は存在しています。

ただ、今のぼくには、目の前に見える風景しか見えません。

目の前に星や月が見えていても、ぼくの手には届きません。

それでも人は、それが存在するって信じられれば、届かない、見えないモノを崇拝します。

その最も崇高な存在が、神であり、宇宙なのだと思う。

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ぼくの意識の中では、目の前に見える風景が現実であり、この現実は、神や宇宙から最も遠い存在でした。

現実は、ホコリにまみれていたり、不完全で、足りないモノだとぼくは思っていました。

だから、ホコリにまみれていて、不完全で、足りない世界をぼく自身が作ってきたように思います。

それは、ずっとずっと、いつまでも果てしなく続くように思っていました。

ぼく自身が、そうやって「いつかは何か成し遂げられる。」と漠然と思うために、自分の意識の中で必要な世界を作ってきたように思います。

これまでぼく自身が意識の中で作ってきた世界は、そもそも、神のいる、宇宙の存在する世界とは、違う次元なんじゃないかと、思うようになりました。

神のいる、宇宙の存在する世界は「常にすべてがそこにある」世界なんじゃないだろうか。

「常にすべてがそこにある」のなら、何があるのか、何が見えるのか、何ができるのか、自動的に決まるでしょう。

ムリに何かをするとか、成し遂げるなどと大げさなことではないでしょう。

年を取ることでも、名声を得ることでもないでしょう。

ホコリにまみれていても、不完全でも、足りなくても、届くもの、見えるものは、いつでもここにあります。

ただただ、何を感じるのか、をこれからは、大事にしようと思う。

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自分に嘘をつかない、ということ

ぼくは「人に嘘をつかない。」と言い切れるだろうか。

ぼくは、たくさん嘘をついてきたなぁと思いました。

自分の気持ちに嘘をついてきたからです。

ぼくは「大嘘つき」だった。

そこに今、気がついて、愕然としている、というところです。

ガマンする。
取り繕う。
ムリをする。
あきらめる。

これは、ぜんぶ自分の気持ちに嘘をついているときに起きたことです。

ガマンするときにも、取り繕うときにも、ムリをしているときにも、そして、あきらめたときにも、「言い訳」が、もれなくついてきます。

誰それが、こう言ったから。(大人だから、ガマンしなきゃ。)
人のためになると思って。(本当はやりたくない。)
みんながやっていることだから。(できないって言えないだけ。)
どうせできっこないし。(まあ、いいか。)

自分のまわりにあるのは、自分が何かをやることで、自分が作っている世界です。

もちろん、やりたいことを何でもかんでもやるってことではない。

自分の気持ちと向き合って、意志と意味を考える。

その上で、本当にやりたいことを、やる。

シンプルに。

やっと、やっと世界が変わるかなぁ。

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思いの囚われ人にならないために

ぼくが理解している人間の脳の働きというのは、こんな感じです。

もちろん、脳の専門家ではありません。あくまで、個人的にこう考えている、ということです。

それは、感覚で感じ取られるすべての「情報」を瞬間的に認識する右脳と、それを記憶に結びつけて整理しようとする左脳とがバランスしつつ、時間によって切り取られた空間を現実のものとして、捉えようとする働きがある。

というものです。

もしそうだとしたら「自分を見て、自分を知る」ということは、右脳が感じているものが何かを理解することであり、左脳がどんな風に考えているのかを理解することなんじゃないかと、ふと、考えました。

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どうやら、これまでは、右脳と左脳の働きを分けて考えていなかったいうことに気づいたのだと思います。

何を感じているのか、何を考えているのかは、同時に行われていて、気が付かないくらい精密にバランスがとれているので、分ける必要がないとすら、思っていたようです。

しかし、人は「思い」に囚われて、その「思い」から離れなくなることがあります。自分自身にもありましたし、そういう状態になっている「思い込みから外れない。その思いと一致しないことを否定する」人の姿を何度も目にしてきました。

そこでは、何を感じているのかが、感情によってブロックされたまま、置き去りにされていたように思います。

「怖い」「イヤだ」「そんなはずはない」「これが正しい」

自分の中でこれを感情とは理解できずに、左脳がエラーを起こしたまま、情報を組み立てます。ときには記憶すら捏造してしまいます。

これは、ぼく自身の中でも起こってきたことです。ずっと、そのことも「そんなはずはない。」と否定してきたと思います。

「善悪」や「正しさ」という指標は、自分自身にとっては意味のあるものだろうと思います。

しかし、それが自分以外の誰かに向けられたとき、その人を「ジャッジ」することにつながります。

何を感じているのか、そこに感情はないのか。何をどう考えたのか。

今まで、もやっとしていたことが、ようやく、少し、整理できたように思います。

自分が、自分らしく、ということ(2018年7月1日のブログ記事)
思い込み、というだまし絵(2018年5月26日のブログ記事)
デジタル脳、イメージ脳(2018年4月14日のブログ記事)



写真は、鳥取東照宮を正面から見たものです。

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自分が、自分らしく、ということ

ぼくは、子どものころから、ずっとちゃんとできない子だった気がする。

それは、年齢的には大人になっても、基本変わっていない。

ずっと、そう言われてきても自分ではわからなくて、なんでそう言われるんだろうと思ってた。

男でしょう。年上なんだから。肩書のある人の言うことじゃない。何しているの。立場を考えて。

やっと57歳になって、人って、年齢や外見に沿った人間像に合わせて生きているんじゃないかと考えるようになった。

みんな、人が自分を見た時に「こんな風に見られている。」と思う自分を演じているだけなんじゃないのか。

だから、会社で部下を持つと、急に偉い人を演じようとするんだろう。

外見や役割が人そのものだと錯覚をするのだろう。

腰が曲がり、髪の毛が白くなって、薄くなったって、ただの変化でしかない。みんな同じ一人ひとりのたった一つの心を持ち、命を持っている。知識を得て、技術を磨き、社会に影響力を持ち、発言に重みができる。それは、その人自身が、そうあるべきだという偶像の影に隠れているに過ぎない。本当の自分は何を感じて、何を伝えたいのだろう。

ぼくは、ずっと、死ぬまで考えていくのだと思う。

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「息」をそのまま「音」に変える魔法

これは「はてなダイアリー」「オカリーナ日々雑感」に掲載していた2011年(平成23年)4月3日の記事を書き直したものです。

「息」がつく日本語、熟語はたくさんあります。
「寝息」「吐息」「鼻息」「息吹」「青息吐息」「息巻く」「気息」「息の根」「ため息」「息が合う」「息が詰まる」まだまだあります。

息ひとつで表情までもが見えるような気がしますね。
これほど身近で欠かせない存在でもある「息」。

その「息」を使って演奏する楽器もまたたくさんあります。
そのほとんどが「管楽器」で、「息」で吹くというよりは、「息」の助けを借りて吹く楽器です。

オカリーナは、その中でも「息」そのもので吹く、「息がそのまま音になる」楽器だと言ってもいいでしょう。

皆さんは、呼吸をする以外に「息」をどんなときに使いますか。

熱いお茶や味噌汁を冷ますときに「ふうーっ」と息を吹きかけますね。
寒いときに手を温めるときには「はあ」と息を当てて、手をこすり合わせたりします。
風船をふくらませるときは、思いっきり「ぷうー!」と力を込めて息を風船に送り込みます。

皆さんすでにいろんな「息」を使い分けているんですね。

「息」には、「瞬発力」が必要なときがあります。
誕生日のケーキのロウソクを吹き消すときには、目の前の炎に直接ほどよい「息」が届くように強すぎず弱すぎず、「ふっ」というような「息」です。

このほかにも「息」には、「スピード」や「量」、「強さ」「長さ」などの違いがあります。

オカリーナを吹くときには、それぞれのバランスが必要です。

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やらなければ「できない」は生まれない

オカリーナ教室の生徒さんの中に「どうしたらできるようになりますか。」と、よく尋ねられます。

「基本的なことは、そんなに多くはありません。大事なのはイメージすることです。呼吸ひとつでも、どれくらいの息をどこに当てるのかを考えることです。また、一緒に演奏している人の音を聞いて、どんなふうに聞こえるのかを常に想像することです。想像していますか?それだけでもずいぶん変わると思います。」

というようなことを言います。それでも熱心に具体的にどうしたらいいのか、何を学んだらいいのかを聞かれます。

熱心なのはいいことだし、その気持ちがあれば、日々いろんな発見があるのだろう。

呼吸の仕方とか、息を当てるポイント、リズムやテンポをどんな風に感じることができるのか、それぞれが必要としていると思われることをその都度お話をします。

伝えたことが少しでも役に立つのなら、ぼくもうれしく思う。

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ただ気になることは、なんだかムズカシク考えているのかなと思われる場面があるということだ。

ふだん音楽に関わっている人でなければ「慣れない楽譜を見ながら、間違えずに吹く。」だけで、すごいことだと思う。

ぼくの演奏と比べると、どうしても「違い」を感じるのだと思う。それで、なんで違うのかが、わからなくて、質問をされるのだと思う。

ぼくから見れば、「違い」がわかるだけでいいじゃないのかなと思ったりもする。実際、「違い」がわからない人もたくさんいるように思います。

誤解しないでいただきたいのは、わかるから優れているとは限らないということです。「わからなければいけない。」「できないといけない。」にとらわれる必要はまったくないと思います。

できないことをやろうとしなければ、「できない」は生まれないわけで、常に「今、できている。」から出発して、気が付いたら「できている。」が増えていることになるんだと思う。

音楽に関しては、それが当たり前って思うけど、音楽以外のことでは、ぼく自身も「できない」をやろうとして、「できない」を重ねていたな、できるできないの価値観にとらわれていたのだなと、今思うのです。

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「いただきます。」の姿勢を思いながらオカリーナを吹く、ということ

これは、「はてなダイアリー」「オカリーナ、日々雑感」に掲載していた2013年(平成25年)7月3日の記事を書き直したものです。

皆さん、ごちそうを目の前にして、手を合わせるとき、どうしていますか。
おそらく、世界中の誰もがそうだと思いますが、ごちそうをにらんだり、鼻息荒く、肩をいからせる人はいませんね。

もしも「いただきます。」と、手を合わせる習慣を忘れている、という方がおられたのなら、その時は、お祈りのときのことを想像してください。

あるいは、神社の賽銭箱の前で、金額に見合わない願い事を思うときのことを。

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ほら、素晴らしくステキな姿勢をしていると思いませんか。合掌ではなくて、両手を組む場面もあるでしょう。力まずに背筋がすっと伸びて、正面をしっかり向いていますね。人は、こういうときの姿勢は実に自然でのびやかです。

こういう姿勢で歌を歌い、楽器を演奏してほしいのです。

いつもこの姿勢のことを想像してください。そして、楽器に慣れないうちは、手や肩に力が入ってないだろうかと、ひとつひとつを点検しながら、ゆっくり長い音から吹き始めてください。

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今できることを、今やる。

人は、誰でも一度にひとつのことしかできない。

やろうと思うことをすべてやるためには、どうしても何かを後回しにすることがある。

そんなとき、ぼくは、やらなきゃ、こなさなきゃって思ってた。

常に何か後回しにして、それでも、やることを増やしていたと思う。

年齢を重ねれば、できることはどんどん少なくなる。

ひぃひぃ、ぜぃぜぃ、そういいながら、でもこなしてた。

まだできる。こんなこともできる。そうやって自分を励ましていたと思う。

でも、そうやって、本当にやんなきゃいけないことも後回しにしちゃってたと思う。

後回しにするには、常に順序や、理由が必要になる。

本当にやんなきゃいけないことでも、理由をつけて後回しにしてしまう。

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あほです。

気づけばいい。

「ぼくは、一度にひとつのことしかできない。」そう、気づけばいい。

どっちみち、同じひとつのことをやるのなら、意味のあることをやればいいだけ。

今できることで、意味のあること。それこそがやるべきこと。

あとはそもそもやんなくていいんだから、後回しって思わなくていい。

後回しにするには、理由が必要になるから。理由なんてなくていい。

はー。そうか。そうだったんだ。

今できる、ひとつのこと。意味のあることを。

今、やる。それだけ。デシタ。

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今感じていることを、声に出す。

直接感覚で感じることは、わかります。声に出ます。

「痛い!」

「ハラヘッタ。」

「トイレ行きたい〜。」

理屈で考えると、感覚を忘れていることがあります。

何かに夢中になると、おなかすいてたのを忘れるみたいに。

どうしようかな〜っと、迷っていると、今度は忘れるのではなく、感覚を抑えていることがあります。

「おなかが痛いけど、気のせいにしておこう。」

「おなか空いたけど、我慢しようかなぁ。」

「おしっこ漏れそうだけど、ハズカシイなぁ。」

それも度が過ぎると、自制が始まります。そうなると、感覚を否定することになります。

「こんなことでお腹が痛くなるハズがない!」

「朝トースト1枚食べたし、食べなくてもダイジョウブ。」

「トイレに行きたくなるなんて。今日はもう水を飲んじゃだめ。」

この例は、極端かも知れないけど、感覚って、だんだん見えなくなることがある。

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見えてるハズなんだけど、ごまかしてるってやつ。

自分の感覚を否定していたのが、他の人のせいになると、これはヤバイ。

そうなる前に、

自分に言う。声に出して言う。今感じたことを言う。

誰かに言う。声に出して言う。こんなふうに感じたんだけど。

言える。言おう。そうしようと思う。

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