ぼくは、ものごころついた頃から、「できる」「できない」の価値判断で生きてきたように思います。
「できる」ほうが「優れている」。
だから、人より、もっと、いろんなことを、高度に「できる」ことを目指していたわけです。
それが、当たり前だと思っていました。
もっと、できるようになりたい。優れていると、人に認められたい、評価されたいという「認められたい病」だったわけです。
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この考え方には、はっきりした落とし穴があります。
「できない」ほうが「劣っている」という思考が同時にあるわけです。その思考が自分の中にあるとは思っていません。無意識が、その思考を隠しています。
ものごとにはすべて裏表があるわけですから、隠しているつもりでも、人には見えています。
そういう意味では、ぼくは、サイッテーなやつでした。今は、それが、わかります。
自分自身、できないことがあると、自分を恥ずかしく思っていたし、そう思われたくない不安をずっと抱えていました。
当たり前のことですが、できる、できないというのは、「状態」に過ぎません。ニンゲンは空を飛べません。劣っているわけではなく、ただ飛べないという状態があるだけです。
「努力はいつか必ず報われる」と信じている人もいると思いますが、そんなことはないと思います。どんなに努力してもニンゲンは空を飛べません。ぼくはぼくである限り、ぼく以外の人になることはできませんでした。
いやいや頑張ること。
妄信的に行うこと。
人のためだけにやること。
流れにさからうこと。
これは、ぜんぶ、ムダな努力です。これに「あなたのために」というアピールが加わると、偽善です。もっと言えば、それはストーカー的な犯罪であり、暴力です。
それでも、こんなに頑張ってるのに、努力してるのにって思っていたわけです。何を見ていたんだろうか。
いやいや頑張ろうとしない。
盲信しない。
自分をまず見ること。
人と、流れを見ること。
できる、できないではなくて、何を感じるか。楽しいか、つまんないか。それをまず自分自身で感じられるか、人に伝えられるか、人がどう感じているかに意識を向けられるか。その上で、人にどう伝えるか。
言葉にすれば、なんだか、アタリマエのこと。