カテゴリー
essay music ピアノ

今ここにあるすべて

今、ここに、自分自身を含む宇宙のすべてがあって、現在も過去も未来も存在しない。最近、そんな風に考える、というか、感じられる瞬間を味わうことがあります。

幼い頃、たびたび不思議な感覚に襲われることがありました。目を閉じると、そこは宇宙空間で、目に見えないほど小さいと視覚的に感じていたものが、同時にとてつもなく巨大に重く感じられる、空間に上も下もなく、落ちていくと同時に広がっていく。やがて自分自身が宇宙そのものになりそうな感覚に襲われて、そのまま目を閉じていられなくなるのです。

目を開けた瞬間、現実が現れます。

現在59歳ですが、それは、4歳から10歳くらいまでの記憶です。ずっとこの歳になるまでその感覚は忘れていたというか、考えずに過ごしてきました。人に言うと「幻想、空想、妄想」と言われるだろうし、自分でも、確信が持てませんでした。

最近、今、ここにすべてがあるということが感覚的に理解できるようになりました。あくまで感覚的です。現実として見ているものが、むしろ幻想です。

だいじょうぶか、おまえ。って言われそうですよね。

現実は現実として捉えていますので、だいじょうぶのはずです。

向上心を持つこと。目標を持って、計画をして、ステップアップすること。そう考えて生きてきました。それが人間らしい生き方だと考えていたからです。

でも、それは単に結果に過ぎないことに気が付きました。

つまり、今ここに、自分自身が感じているものが存在して、その感覚に沿って行動するからこそ、結果的に、人から見たら、ステップアップしているように見えるのです。わざわざそう見えるように行動する必要はありませんでした。

たとえば、ぼくは、最近毎日ピアノを弾いています。

向上心があります。

人前でピアノを弾けるようになりたいという目標があります。

それは、それ。なんですね。

電子ピアノを買ったんです。きっかけは、そこからでした。

弾いてみました。

全然焦っていないんですね。今、コンサートで弾くわけじゃないし、誰かの伴奏をするわけでもない。音大にもピアノ教室にも通っていません。先生にも習ってもいません。

楽しいんです。ぼくは、もともとギターよりピアノが弾きたかった。ギターはある程度弾けます。教えたりもしています。

ピアノを弾きたい、は自然なことなんですね。

結婚するときに妻が持ってきたグランドピアノがあります。去年の春までは、娘が弾いていました。娘が県外の大学に進学したため、今は、ピアノを弾くのは、ぼくだけなんですね。

思い起こせば、ギターを弾き始めたときも、同じような感じでした。

ぼくが中学一年のときに、姉と兄とぼくの三人で出し合って、ギターを買いました。ずっと、ギターに触っていたのは、ぼくだけだったですね。楽しかったから。ギターに関する奪い合いのケンカは一度もありませんでした。

感覚に沿って行動していたら、できていた。そういうことが多かったことに今更ながら気が付いたわけです。

思い出せば、何事もまったく計画的ではありませんでした。

計画することがダメっていうことではなくてね。ぼくにも計画はあるわけです。200歳まで生きようということも計画のひとつですし。別に明日死んでもいいわけですけど。

楽しいを基準に今あるすべてを感じることですよね。

それがいいな。

今回のは、ちょっと支離滅裂な文章だったかな。そういう脳みそなんで、それはそれで、ちょうどいい。

カテゴリー
essay music pc

ピアノのある部屋

別の部屋にはグランドピアノもある。

ピアノの楽譜を見ながら、両手で弾ける・・・というわけではないです。演奏家として、人前でピアノを弾くことはないんですね。

メロディや和音を楽しむために弾く、という感じです。

具体的には、作曲やアレンジ、もう少し小さなMIDIキーボードでパソコンに打ち込みをしたりします。

この写真は、いつも作業をしている机の隣に最近購入したコルグD1という電子ピアノをセットしてみたという図です。ピアノのない場所で練習をするときに、これを運んで、自分じゃなくて、ピアニストさんに弾いてもらうんです。

これで、思い立ったときにピアノが弾けます。夜中なら、ヘッドフォンをつけて。

その近くにはギターも4本並んでいます。ギターは以前から、いつでも弾けるんですけど、ピアノはそうはいかなかったから、これはちょっとしたトピックスです。

パソコンも部屋ごとに置いてあったりします。

なんとぜいたくだわなぁ。

音楽っていいね。

カテゴリー
essay iwami music オカリーナ

オカリナ奏者myu

「myu」を「みゅー」と呼んでください。

岸本みゆうあらため『オカリナ奏者myu』です。

2020年7月20日の午後7時20分に生まれました。(おぎゃぁ!)

アゾースキーさんと岩美町中央公民館第2研修室というところ(ローカルな話やな)で、9月にあるイベントの練習をアゾースキーさんのフルートとぼくのギターとでやってました。で、その練習のあとで、アゾースキーさんに「どうせ今、転機なら、名前をすっきりmyuにしたらどう?」と言われたのがきっかけです。アゾースキーさん、バリバリ名付け親です。

これからは仕掛けます

今までは、ふだんはオカリナ教室の講師をしたり、パソコン教室の講師をしたり、ギターで伴奏をしたり、クラリネットを吹いていたわけです。そして、呼ばれたら演奏するという感じでしたが、まだ事務所もなんもないですが、オカリナ奏者myuを名乗ることにしました。

で、この日は、めっちゃ蒸し暑い日で、梅雨明けしないまま夏が来たというカンジです。

それでいて、海水浴場の開かない前代未聞の夏です。こんな未知との遭遇2020年なんですが、新型コロナのことも含めて、いつかは、そんなこともあったのけー、へーぇぇぇ、ってなる日も来るんでしょうか。

そういうときにこれから、オカリナ奏者としてやってくぞという気概を見せようとしているところです。

「気概」なんぞという、およそ吾輩の辞書にはない言葉を使っちゃいました。いろいろ転機はカンジてたので、たまたま白いギターケースやら、新しい電子ピアノやらが手に入ったりもしてたりしてたり。今、だなと思いました。

やりましょう。いろいろ。

カテゴリー
essay music オカリーナ

いっぽんどっこの唄

♪ぼろは着ぃてても〜♪って、あの曲。

貧乏でボロを着ていてもがんばってる男の歌かなぁとか、一途なガンコな一本気な汗くさい男の歌かなぁとか、ぼくはどこかでそんなイメージをこの歌に描いていたと思う。

オカリーナの個人レッスンでこの曲にリクエストがあった。いつもやっているように、歌詞を読み、タイトルの意味を調べてみた。

「いっぽんどっこ」というのは、男性が着物の上から締める博多織の帯のことだった。

どこかの方言で「一本気な男」のことかなぁと思っていたのは、「いっぽん・・・」という語感から感じた、ぼくの勝手な先入観だった。

さらに、その帯の名前にも由来があって、お寺のお坊さんが使う仏具の中に両端が尖ったヤリの先のような金具がある。それを「独鈷(とっこ)」というんだそうだ。博多織のこの独鈷を模した模様が由来だそうだ。

そうやって、改めて歌詞を読んでみると、なんだか粋で芯のある、カッコいい男のイメージが浮かんでくるから不思議だ。

カテゴリー
essay music

加藤省吾氏没後20年展

仕事の待ち合わせの時間まで、1時間ちょっと時間があったので、久しぶりに鳥取市の「わらべ館」に行ってきました。

「みかんの花咲く丘」などの作詞で知られている加藤省吾氏の没後20年展が開催されていると、オカリーナ教室の生徒さんから先日聞いたばかりだったので、たまたまわらべ館の近くにいたこともあって、行くことができました。

その日は、土曜日の昼過ぎですし、いつもの様子を思い出し、人が多いんだろうなと想像して行ったのですが、予想に反して、まったく人影がありません。

受付には透明なシートがセットされていました。その隙間越しのやりとりです。コンビニでもどこでもそうですが、すっかりこれが日常の光景になりました。

この日は、「WeLove鳥取キャンペーンPart 2」だとかで、半額の250円で入れました。ラッキー!今月いっぱい(6月30日まで)は、鳥取県民であれば、入館料が半額、おもちゃづくり体験一部のキットが割引になるそうです。

加藤省吾さんは、講演でも鳥取市に訪れているようです。

「みかんの花咲く丘」を歌われた川田正子さんとのツーショット写真も展示されていました。幸せそうな表情でしたね。

この曲の思い出

ぼくの中には、桜が咲き、次に梨が咲き、そして、蛍のたよりを聞く頃に、みかんの花が咲くというイメージがあって、6月ころになると、この曲を思い出します。

いちばんの思い出は、岡山県の長島愛生園の中央にある丘の上から見たみかん畑に白い花が咲いていたのが印象的でした。それもちょうど今頃だったと思います。

鳥取県出身で、幼少の頃から長島で暮らしていたKさんを訪問して、庭で育てていたゴーヤで奥様がチャンプルーをごちそうしてくれました。本棚に徳永進先生の本がずらっと並んでいました。

その後案内された集会室に、岩手県出身で、鳥取市在住の田中かおるさんの童画が中央に飾られていたのが印象的でした。

ここでは、病気で手首から先を失った方とも知り合いになり、握手をさせていただきましたが、温かい手のぬくもりとサングラス越しの眼差しに感動した記憶があります。

時間が同じように進まない世界があることを、ここで知ったように思います。

丘の上

中央にある丘には、納骨堂があります。公園のような見晴らしのいい場所ですが、骨壷はコップのような大きさでした。ふだんは納骨堂は野外のアーチの外からでしか見えないそうで、案内してくれた自治会長さんから、その話を聞いたあと、アーチの外で「故郷」「みかんの花咲く丘」をオカリーナで吹きました。

カテゴリー
essay music オカリーナ

tuitou

度々ニュースで有名人の自死が取り上げられます。ただただ、いたましく思う。心よりご冥福をお祈りします。

その背景となったいきさつについては、今回は、SNSでの誹謗中傷があったと聞いています。

一般の方の自死は、ニュースでは取り上げられません。めちゃめちゃ多いらしいです。

個人情報ということもあるし、有名人ではないので、目につきにくいということもあります。

音楽のちからを殊更に強調はしたくはありませんが、音楽を通して、何かしらできないのかなとは、思っています。

ネットでの音楽コラボとか、内輪でのバトンメッセージみたいなのは、ぼくは苦手です。それは、控えめにお断りしています。

音楽は、やはり直接伝わる場面で、これからも大切にしていきたい。もし、誰かが命を終わらせようと思った時に、心がしずまる音楽を思い出してもらえたらと願わずにはいられない。

本当に、本当に。自分で命を断ってしまうのは、そばにいる人のことも含めて、悲しすぎる。

カテゴリー
essay music オカリーナ

久々に白兎です

新型コロナ対策で丸々2ヶ月休んだ教室が、順次再開です。今日も、鳥取市末恒地区公民館でのオカリーナ教室が再開でした。

写真の風景は、曇っていますが、海はサーファーもお手上げな、ベタ凪です。このあと、ザーッと雨が降りました。

上記はお昼にご飯を食べる前に書いた文章です。アプリが保存してくれていました!午前中は、オカリーナのレッスンと、クラリネットのレッスンでした。

午後からの再開したオカリーナ教室。今、鳥取県東部は田植えの時期で、ご自宅やご実家、親戚が農家という方がお休みで、それ以外の皆さんが参加してくれました。

前回は春の曲に取りかかったところで、お休みになったので、夏をイメージした曲をやりました。

午後は、その後2つのオカリーナ教室でした。

明日も、一日、教室があります。楽しみます。たくさんの笑顔に会えるのが、支えになります。ありがたいですね。

カテゴリー
essay music

新しい世界へ

妙なことです。まわりを見渡してみても、新型コロナウイルスの影響は見られないのに、この鳥取でも、しっかり自粛ムードは徹底しています。

そのお陰もあるのでしょう。島根の方で、感染された方があるようですが、鳥取と岩手がまだ感染者ゼロで残っています。数字には現れていないだけで、あくまで想像ですが、鳥取県内にも感染された方はおられるのでしょう。ぼく自身、なんの自覚症状もないけれど、もしかしたら、調べたら出るのかも知れません。わかりません。

今日は、午前中、鳥取市末恒地区公民館で、ギターのレッスンと、オカリーナのグループレッスンでした。午後、1曲録音をして、もうひとつオカリーナのグループのレッスンに行きました。夜は、公民館での音楽練習です。

今日録音したのは、「ハウルの動く城」のテーマ曲「人生のメリーゴーランド」でした。

カテゴリー
essay music

日々雑感

昨日は久々のパソコン講座でした。この講座については、あしたパソコン教室のエフセブンの方にも書いておこうと思います。

音楽ができるありがたさ

今日も、一日レッスンで、音楽いっぱいの一日でした。会場が利用できて、生徒さんが来てくれるからレッスンが出来ます。とてもありがたいと感じます。

ぼく自身が保菌者にならないように、石鹸で手洗い、外出時のマスク、うがい、アルコール消毒など、あとは睡眠と栄養ですね。そして、音楽、心の栄養も大切です。

レッスンをやってて、生徒さんの笑顔に助けられます。心のリフレッシュになりますね。じっとしていたら、どんどん、マイナスなことや、思考の深みにハマりそうになりそうですよね。

事実を見ること

一番の不安は先の見えないことなのかなと思います。見えないことは不確実なため、見えないのですから、まず、確かなこと、事実を見ることが必要なんだと思います。事実は、鳥取は少なくとも、生活に影響はありません。もちろん、イベントの中止や延期で、仕事が減ったりはしています。その分収入もありません。

この状況は、見えない敵との闘いであって、戦争に例える人もいます。これが今後解消されるというよりは、今回の経験を活かすことで未来がつながるということは、間違いないことです。

この経験をどう活かすか

いろいろ見ていると、インターネット上での個人の動画配信が増えました。ユーチューバーだった人はもちろん、それ以外の人も、世界中で様々な情報を、YouTubeだけではなく、様々な方法で発信し始めています。インターネットはそういう意味で、今、急速にリアルな社会として発達しています。既にもう仮想現実ではありません。

インターネットという窓の中に見えていた世界が、今回の騒動をきっかけにして、一気に窓枠も壁も取り除かれたような気がします。これまでは、新聞やテレビでしか見えなかったような政治や経済の動きも、細かくリアルタイムで見ることが出来ます。

ぼくもいずれはこのブログ以外にも情報発信をすることになるんだと思います。それが動画配信になるのか、本になるのかはわかりません。違う場所に行くのかも知れません。

とにかく、今の経験を事実として受け止めること、それを活かすことを考えています。これからの未来も、笑って生きます。そういうイメージを持っています。

カテゴリー
essay music オカリーナ

今こそ、笑うとき

マルチな一日

今日は久しぶりに午前中は家にいて、片付け物をしていました。午後から、オカリーナ教室、ギターのレッスン、クラリネットのレッスン、それぞれに違う楽器をレッスンしていました。

ぼくは、もともとパソコンの先生だし、これ以外にサックスやハーモニカも教えることもあり、何屋だ?という感じです。

それでも、59歳で健康でやりたいことをやらせてもらえるって、すごい幸せなことだと思います。

これがいつまで続くとか、そういうことは考えていません。今を精一杯生きたいといつも考えています。

桜のつぼみが濡れて

今日は、朝は曇りでしたが、午後からは雨になりました。気温はあまり上がらず、桜も三分咲きから五分くらいで、じっと暖かくなるのを待っているという感じです。袋川土手もほとんど人影はありません。

40年近く前、東京で一人暮らしをしていました。

苦しいときもありましたが、「まだ、どん底じゃない。だいじょうぶだ。」といつも口癖のように自分に言っていた記憶があります。

貯金がゼロになっても、「食うモンなかったら、水飲んで寝るか。」と笑っていました。中野区の水道水は飲める水でした。水で腹をこわしたことはなかったと思います。

今こそ、笑うときかな、と思います。