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タイヤ交換どうする?

昨年、12月に入ってすぐに、冬用タイヤに交換してもらいました。

その後、鳥取地方では晴れ間は少ないんだけど、雪はまったく降っていない状況です。

今、1月中旬を過ぎて、まだ2月、3月と冬の時期が続きますので、今すぐタイヤ交換をする気にはなれないものの、夏用タイヤに比べて、摩耗しやすいタイヤ(実際は、どうなの?)だと思うので、こんなに雪が降らないと「もったいないかな。」とも思ったりします。

地球温暖化に対して「そんなことはないんだ。」と、否定的な方もおられます。科学が専門の方がそう言われるとそうなのかなとも思いますが、現実として、どうなんでしょうか。

かまくらを作った記憶、学校が登校したあとで、臨時休校になって、バスを待って、乗り継いで、帰った記憶、つららを見た記憶、歩道の水たまりが凍っていた記憶、クルマのチェーンを吹雪の中でジャッキアップして取り付けた記憶。

夜中、トイレに起きて、暖房がなく、冷え切っているはずのトイレで息が白くならない。今たぶん外に出ても同じ。

ストーブやエアコンがあれば、普段着でいられる。

こんな年が毎年続くようなら、交換の必要のない、オールシーズンタイヤを誰もがはくことになるような気がする。

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音楽の「響き」って「心の周波数」なんでしょうね。

音楽の響きを、単なる音の高さや音色の違いだと思ってる人がいるんだけど、どうもそうじゃないみたいだね。

だって、世界的に成功しているプロの演奏家のコンサートが時には、ぼくにはつまんなかったりするんだよね。

ただ音が大きいだけのロック歌手とかね。

コンクールで優勝しました的な演奏家とか。

ぼくの先生、ジャズピアノ奏者なんだけど、誰が弾いても同じ音を出すはずのオルガンを弾いても、確かな「響き」があるわけ。

「何当たり前のことを言ってるんだ、お前は。あほか。」

って、先生言うよね。きっと。

最近ね。音楽はあくまで媒体であって、伝わるのは、心の周波数なんじゃないかって気がしてる。

心の周波数って、なんかこの言葉って、ちょっとキレイにまとめすぎちゃってる感じがするけど、ほんとなんだよね。その人そのものが伝わってくる。

そのことに気づいたなぁ。

今までどうしてわからなかったんだろうって考えた。

ふと思ったのは、ぼくもこれまで、技術とか、高度なこととか、そういう理屈を求めてたんだってことだね。

で、そういう高度な意味ですごい人を理想像、偶像みたいにして作って、その一方で、いくらやってもたどりつけない自分像を作ってたんだわ。

もう、その偶像とか、いらないわ。

伝えたいものは、自分の中に既にある。特別でもなんでもなくて。それを伝えればいいし、なんなら伝えようとしなくても、伝わる。そういうことだった。

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うまくいかないときに、がんばっちゃう、という問題。

なにかしら、予定通り進まないときとか、人に催促されたときとか、予想外のハプニングが起きた時にどうするかってありますね。

はい。これまでは、ぼくは、がんばっちゃってました。

できないって言うのがイケナイことって意識もあったように思います。

有言実行とか、そんなことばを座右の銘にしていたり。

男は黙って、なんたらとか。

チャンスかもしれない。

できないとか、うまくいかないっていうのは、ある意味変化ですよね。

見えていなかった自分のこと、発見するかも、です。

なんだ、今まで出来ていたのは、ふりをしてただけなんやーっとか、ワンパターンでこなしてただけだったーっとか。

あの人にたのもーって、なんか広がるきっかけができたりもする。

そういう経験をすると、逆にわくわくすることがありますね。

そうやって意識すると、ごまかせなくなりますよね。

わかったふりとか、適当に合わせるとかが、できなくなる。

どんどんいろんなことが明らかになっていきます。

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疑問形で考えているときは要注意だな。

ぼくは、もちろん自分のことを悪人だとは思ってはいないんだけど、それでも、心の中には結構黒い部分があるんだなと気が付いたのは、もう3年くらい前だと思う。

それは、欲望や妬み、怒り、蔑み、自己嫌悪の類だ。

それで、これまで、そうした自分を見つめることを繰り返してきたわけだけど、変われたかというと、そんなに変化はなかったと思う。

それが、なぜなんだろうと思って3年ほど経ったわけなんだけど、ふと最近になって気づいたことがある。ここまで、かなり時間がかかったもんだね。

「これはエゴだろうか。」とか「これは妬みだろうか。」などと、疑問形で考え始めたとき、実は潜在意識は、「うん。それはエゴだよ。」「妬みに決まってるじゃん。」って、言っていたってわけ。それを認められないから、哲学的に思考するふりをして「エゴじゃない」考え方、「妬みと思わない」考え方を探して、そのままの自分を認めていなかったということだった。

考えるべきは、どうしてエゴが出てきたのか。何を妬んでいるのかであって、そうじゃないと、エゴも妬みも昇華されないで、うやむやに残ってしまう。

潜在意識に善悪はない。感じたものがそのまま表れる。まず、そこを捉えることだ。そうしないで、別の考えに逃げることをしていたから、いつまでも変われなかっただけのことだった。

2020年は、そこから始めることになるようだ。

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あか音ぐも

ネーミングって不思議だ。

「きれいな茜雲(あかねぐも)だなぁ。」と、そう言った人は、メンバーの中にはいなくて、その一言を聞いた人が、そのイメージを受けて、名前がつけられました。

それまで、このオカリーナ・グループの名前は「あるわいな」でした。もうずいぶん前になります。月日がたって、グループのメンバーも相当入れ変わりました。

けったいな(変わった)名前が流行した時期がありました。

「勝手リーナ」「オカシーナ」というようなネーミングもかつてはありました。「あるわいな。」というのは、「まあ、そんなことも、あるんだろうな。」というようなニュアンスの言葉で、当時そんな話題がグループの中でポンポンと出てきていた時期で、つけられた名前でした。

当初「あか音ぐも」は、消極的で「おとなしい」静かなグループでした。

そのため、一人ひとりにソロを演奏するように課題を作った時期があります。グループ内でのミニ発表会というスタイルです。半年以上続いたように思います。おとなしい感じはありますが、その後は、リラックスしたゆるやかな雰囲気に変わりました。

そのグループが今度は岩美の道の駅「きなんせ岩美」で演奏してくれるかも???

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みやびな鶏。

ある日のオカリーナ教室シリーズ。(そんなシリーズあるのかな・・・)

オカリーナ教室、グループの名前は、それぞれに任せているので、自由な名前がついてる。

今日は、雅(みやび)な鳥と書いて、「雅鳥(がちょう)クラブ」。ダチョウ倶楽部と間違えそうだ。

オカリーナがイタリア語でガチョウだから、というネーミングらしい。

みやび、というより、にぎやかい。笑いが絶えない。

タグは「miyabi」にしよう。

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あるオカリーナ教室の様子

白壁天女琴リーナ(しらかべてんにょことりーな)という、長い名前のオカリーナグループに月2回レッスンのため、お邪魔しています。

名前が長いので、略称はないですか?と尋ねると「しらかべ」か、「ことりーな」だと言います。他のグループから「しらかべさん、ことりーなさん」と、そう呼ばれることが多いらしい。

「天女が抜けとるがな。」と大笑いしました。

現在男女9名のグループです。練習場所にちなんで、このページでのタグを「取調室」としました。以下のリンクからでもアクセス可能です。

https://tajiri90.com/tag/sirakabe

練習(レッスン)会場となっているのは、倉吉市文化活動センターの2階にある、通称「取調室」です。建物が元倉吉警察署で、その部屋の入口が鉄製の2重扉なので、グループの中で、そう呼んでいます。実際に、この部屋が取調室だったかどうかは、わかりません。

2019年12月20日(金)は、今年最後の練習(レッスン)でした。

高い音の練習曲

この夏ぐらいから、Amazonで販売している電子書籍「オカリーナ入門」に掲載されている「高い音の練習曲」を、やっています。今日は、高いドから上の音がよく響きました。順調に成果が出ているようです。

太鼓に囲まれた部屋

倉吉打吹(うつぶき)太鼓の保管部屋にもなっていて、太鼓のイベントがない時期には、部屋は大小様々な太鼓が並びます。太鼓がたくさん部屋に並んでいるときは、オカリーナの合奏の音色が柔らかくなります。不思議です。

打吹太鼓は、今年最後の大きなイベントが終了したようで、今日は、たくさんの太鼓が並んでいました。狭い部屋なので、太鼓がないときは、響きが大きくなります。今日はとてもオカリーナの合奏が、聞きやすい音で響いていました。

練習(レッスン)を行う部屋の響きはとても重要です。場所によってずいぶん響きが変わります。響きの乏しい場所では、ふだんの会話も控えめになったりします。

ここは、楽しいメンバーが集っていることもあり、実ににぎやかで和やかです。

ひとまず、続きは気が向けば、明日書きます。

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この世の中で、手の届かない誰かが悪いということは、まったくない。

ぼくは、これまで、なにかあったときに、よく言い訳をしていたほうだと思う。

こうするはずだった。

もうちょっと時間があれば。

ぼくの力不足で。

責任を持つということは、今ここにあるすべてが、自分のことだと言えるということだ。

手の届かない、誰かに対して責任があるということは、一切ない。ぼくには、ぼくの手の届く、声の伝わる世界に対して、責任がある。変えたいとか、変わってほしいとか、ではなく、今、伝えたいし、感じたい。

変わるかどうかは、結果として見えるだけだ。

こうして文章を書いているのも、自分の声を聞いて、文字にして見て、自分で確かめている。そういう作業だと思っている。ぼくの中で確かになったものだけが伝わる。そして世界から伝わるものを、ぼくは感じることができる。

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時間は、距離でも、壁でもなく。

今日、ある友人と20数年ぶりに会った。「久しぶりだね。」とは言ったけど、数秒後には昨日会ったのと変わりなく、ただ心地良い。お互いが歳をとったことも自然だった。たまについ口癖で敬語が出てしまうけれど、それもおかしいくらいで、まったくいやではない。

彼女とは、パソコン通信をやっている全国の35歳がネット上で出会い、会話をするという実験的な番組で知り合った。

熱くなったり、ダラダラと長くなったりする画面上の会話に彼女は、すっと、さらっと入ってきて、いつの間にか、うまくまとめてるみたいなところがあった。いつも自然体で、柔らかさがあった。

20数年前に、ぼくが鳥取で忘年会をしようと呼びかけて、全国から10数人が集まってくれた。その中に当時海外で暮らしていた彼女もいた。まったく印象どおりだったことを覚えている。

「(宴会場の外に見える)この道路は、ぼくがこどもの頃にはなくてね。ずっと砂浜だったんだ。」

彼女は、富山の海に似ていると言った。実家だったのか、おばあちゃんの家がそうだったのかは覚えていない。

今日は彼女のダンナさんも一緒だったが、なんだか二人が二人でいることがしっくりくる、そんな感じがした。

今日わかったのは、時間が距離に感じられたり、壁になったりするのは、みんな幻想なんだということ。

伝わる相手とは、いつどこにいても同じ空間にいるのだということ。

そして、その幻想を現実のものだと勘違いしているのは、執着という強い思いなのだということ。

同じ空間にいるのだとしたら、執着はいらない。お互いが事実だけを見て、認め合うだけだ。そして、心から尊重しあえる。

また会えると思う。それがいつになってもかまわない。会えたらうれしいと思う。

音楽ライブユニット ぽんかん。(音源へのリンク)

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誰にとっても、同じ1日。

ある70歳代の男性が「なんぼ生きても、あと10年ですわ。近ごろ、そんなことをよう考えますで。」と言うんです。

こんなふうに話をふられたとき、59歳のぼくは「そう言わんと長生きしてつかいな。」と鳥取弁で言う。

こんな話をするとき、いつも違和感を感じてた。本当に明日生きているのか、死ぬのかって、誰にもわからない。そりゃ、70歳より80歳のほうが死ぬ確率は高いんだろうけど、今生きているのに、8ヶ月だろうが、70歳だろうが変わりはしない。今、健康な人が、病氣をしている人より、早く亡くなったりもする。

どうせなら「今日も生きてた。」と言って、1日の終わりを喜びたいし、「今日も目覚めた。」と言って、わくわくして1日を始めたい。

あまり「何年か後にこうなりたい。」とかって、思わない。目標がないわけじゃない。それよりも、今生きていることに意識を持ち続けたい。刹那主義とも違う。人からは「恵まれているからだ。」「健康だからだ。」と言われたりもする。

いやいや、どんなときでも生きている以上の恵みはないです。それは、断言できる。どんなにつらく苦しいことがあっても、そのことに感謝は忘れない。なーんて書くと、崇高な精神のように思われて、持ち上げられたりもするから、それはいらないって思う。

そういうことをさらっと言っているOSHOのような人もいる。そう、ありたいなとは思っている。

Osho Japan