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次のアクションまでの時間

次の「アクション」が「死」でなければ、それまでの時間、いろんなことができる。それこそが「可能性」だ。「死」以外の出来事が「可能性」のすべてだ。

お金があるとか、ないとか。あれができて、これができていないだとか。現象にとらわれて、それを理由に「可能性」から、逃げていないだろうか。

死んでいなければ、生きている。それだけ。

あと数時間で死ぬとわかっていたら、ぼくは何をするのだろう。

まず、優先順位を必死で考えるだろう。

優先順位も何もなければ、俯瞰するしかないだろうし。そういう状態でいるかどうか。

ただ見て、感じる。そうやって、生きている。

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essay iwami music オカリーナ

なんとなく、なんとなく

今日は、道の駅「きなんせ岩美」でのアポン・サロンコンサートでした。

こういったオープンな場所での演奏は、常に新しい出会い、予期せぬ出会いが待っています。

目の前にいるのは、たいてい、いつも「たまたま」そこに来られた方です。

今日も楽しいライブでした。あーたのしかった!!

そんだけーーっ!!

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時間旅行

ぼくは、今日、こんな経験をした。

お昼ごはんを食べて、道の駅の駐車場にクルマを停め、エンジンを止めてやすんでいた。

おなかがいっぱいになると、だいたい、眠くなる。

その時も猛烈な睡魔に襲われて、運転席に座ったままで、目を閉じた。

ふと目が覚めると、1時16分だった。

ここから5分のところに、仕事先があって、1時半には着いておきたい。

「起きなきゃ。」と思いつつ、また眠ってしまった。

ふたたび、目覚めると12時56分だった。

まだ少し時間があった。そして、1時16分には目が覚める確信があったので、安心して目を閉じた。

そして、三度(みたび)目覚めたときに時計を見ると、1時16分だった。

もちろん、仕事先には時間までに余裕で着いた。

その時は、不思議には感じなかったことが、今となっては、不思議に思う。

この記事をnoteにも投稿してみた。

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わくわくに沿って生きる

ひとことで「わくわくする。」って言っても、人によって、「わくわく」は、ちがうんだろうなぁと、思う。

ジェットコースターに乗ることを想像しただけで、「わくわく」する人もいれば、「ぞっ・・・」とする人もいるわけで。

20代の頃は250ccのバイクに乗ってたし、今は、クルマに乗って運転するのは、ぼくにとっての「わくわく」ですね。

もちろん、音楽を通して、「わくわく」を楽しんでいます。

物欲全開だった頃は、ネットサーフィンしながらのショッピング、家電ショップの実店舗を見て回ったりするのは、めっちゃ楽しかったけど、今は欲しいものがあまりなくて、その時間は減りました。

あれほど入り浸っていた本屋にも行かないしねー。キンドルで読みたい本を読みたいときに、読んでしまうんだわ。

掃除したり、片付けたりするのが今は「わくわく」になっています。

がんばって、無理して、なにかするっていうのは、もういいかなって思ってる。

努力を否定するわけじゃない。

こうして、パソコンでブログを書くのも、人から見たら、努力に見えるのかも知れないし。

ただ、努力しているという感覚では、ないですね。

もう、これからは、わくわくに沿って生きるだけをやっていこうと思います。

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すだちとビール

鳥取で暮らしていると、季節の野菜とか、果実とか、たまに、松葉ガニとか、いろいろとおすそ分けをいただきます。消費税10%とか、関係ないですね。物々交換の世界。

近ごろブームなのが、クリとすだち。

すだちは、焼き魚や料理にも、もちろん合うんだけど、ビールにも、ばっちり合いますね。

すだちを包丁で半分に切って、その半分をグラスに絞ったところにビールを注ぐわけです。

油断すると、飲みすぎます。うまいです。

今回の台風は、大きすぎます。いやな予感しかしません。

もし、可能な方は、ここ数日ぜひ、鳥取にいらしてください。

瓦は飛びます。今からとめる必要はないです。今の家は雨戸もないんだもの。どうしようもないですね。逃げましょう。

すだちとビール、うまい。寝ます。

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CLに愛を込めて

コンタクトレンズ(CL)って、パラダイス〜♪ですね。

長い間、メガネ生活を続けてきて、コンタクトレンズに出会った人は、そう思う人が多いと思う。

美術館に行って、数歩下がって絵画を見たときに、メガネのフレームに邪魔されずに視線を動かさないで、絵全体が鑑賞できることの喜び!

CLとの出会い

ぼくは、中学1年のときに強い乱視が出始めた。まず、夜見る月が2つ見えた。あれ?ってな感じ。それから、普段でも片目ずつ見ないと気持ち悪くて、酔いそうになるくらいな感じになってきた。だから、視力は悪くないんだけど、席替えのときにいつも教室の一番前に座ることを許される一人だったりした。

それ以来のメガネ男子なので、50代でレンズを使用するまで、歪みのない、クリアな世界を知らなかったと言ってもいい。

ガリ勉メガネ

中学の当時、初めてかけたメガネは四角い黒縁でレンズが大きくて、当時「牛乳瓶の底」って言われていた分厚いレンズですよ。自分で言うけど、成績良かったんで「ガリ勉メガネ」って思われていたかもですね。真実は勉強ほとんどしなかったですけどね(暗に勉強しなくても出来ていたという嫌味な自慢)。

昨今のメガネは、フレームもレンズも技術の進歩もあるんでしょう。薄型でファッショナブルなものが主流で、度のきついメガネかどうかは見た目ではわかりません。

メガネで不自由だとは思っていなかったんだけど、ある日、メガネのフレームが修復不能なまでに壊れてしまって、ぜんぶ作り直すより早く、約半額の費用でできるコンタクトレンズを一時的に使うつもりで作った。それが約3年前。

ぼんやりした、裸眼のひととき

その後、クルマを運転するときにメガネが必要になるときもあるかも知れず、メガネも直したんですが、実は、ほとんど家ではメガネをかけない。夜、風呂に入る前にコンタクトレンズを外してからは、ずっと寝るまで裸眼で過ごします。

20センチより遠い視界は、モザイク以上にぼやけます。カタチが滲んで見える。それくらいの視力しかありません。

でも、またこの「ぼんやり」がいいんだ。ぼかそうったって、ぼかせないものが、もともとぼやけて見えるんだから。

自分の手のひらのシワや、覗き込んだ顔は、よく見える。パソコンの画面も20センチまで顔を近づければ見える。

現実には、見えるかどうかは、あまり重要じゃなかったりする。

新聞や本などの活字を見ようとすると、メガネをつけたり外したりが忙しくなります。それなら、最初から見ないか、20センチの距離で読むしかありません。

逆に全体がぼんやり見えるほうがよく見える、というような不思議なことも起こります。単純に見えるから、見えるではないのですね。不思議です。

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心も便秘になる

ぼくは、あまり便秘になったことがない。
たまにお腹をこわすくらいで、快適に出る。これは、お通じの話。
カラダ的には、新陳代謝が、まあ順調ってことなんだろうな。
循環がうまくいっているから、便秘になることがない。

ここからは、心の話

最近、心も便秘になるんだってことに気がついた。

っていうか、ずっと便秘だったんだ。ぼくの心は。
溜め込んで溜め込んで異臭を放っていたわけだ。
ちょっと想像すると、ごめんなさい、だね。

うんこの正体

雑念や、的はずれな思い込み、妄想や、「こうしよう、ああしよう、こうだったらいいのに。」みたいな、今の状況が見えていない思考。
そういうの、誰だってあるんだと思う。
それこそうんこみたいなもんだから。知らず知らずに溜まっていく。

そういうのを、ぼくはこれまで隠していたし、あまり出してなかったんだと思う。

ぼくが悪いとか、できないとか、間違っているとか、そういうどうでもいい言い訳やジャッジメントをくっつけて、どんどん溜め込んでいってた。

溜め込んだままで、なんとかしようとするから、どうにもならないわけ。

知識は増えて、対処方法なんかは、どんどんうまくなるんだけど、やっぱり溜め込んでいく。

そうやって、うんこを溜める以上に、がんばってキャパを広げていく生き方も、もちろんあるんだと思う。むしろ、ぼくは、これまでは、そうしないと生きていけないって思い込んでいた。

シンプルになること

もう、いいよね。ぼくはシンプルになりたい。
すっきりしたい。
いらないものをすべて捨てる。
いらないことは考えない。

やりたいことだけをやろうと思う。

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「よいしょ」を言わないことにする

「よいっしょ。」「どっこいしょ。」

ついつい、言ってしまいます。

意味を調べると、重いものを持ち上げるときに発する声、とかって、出てます。そうじゃないとき、重いものも持ってないようなときに、ちょっと腰を浮かしたりとか、そういうときにも、ぽろっと言ってます。

本当に重いものを持ち上げるときには、たぶん言ったほうが力が入りそうなので、やはり言うとは思います。でも、ふだんの何気ない動作のときにも言ってしまうと、それが癖になってしまいます。ってか、完全に癖になってしまってましたね。

無意識に、自分に気合を入れているわけですね。

「よっしゃ。」とか。「うりゃあ。」とかも、そう。

次に何をするとか、自分の今感じていること常に意識することで、落ち着いて行動ができるように思います。そうしたら、自然にこういう言葉を言わないような気がします。

たとえば、座っていて次に「立ちあがる」ことに意識を向けていれば、ただ何も言わずに立ち上がれます。

立ち上がったあとの別のことに意識を向けていて、立ち上がることに意識を向けていないときに、この言葉が出てくるような気がします。

何気ない言葉の中に、自分のことを発見するきっかけがあるんですね。自分の意識を今よりもっと見ようと思います。

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忖度なんかするもんじゃない。

「忖度」なんて、前は読めなかっただろうし、この熟語、知らなかったよ。

2017年の森友・加計ですよね。この言葉が出てきたの。2年前。もう、そんなに言わないですけど。何も解決してないんで、そっちも気にはなりますけど、森友・加計は置いといて・・・。

ぼくは、言葉は知らなくても、これまでいろんな場面で忖度してたなと思う。「慮(おもんばか)る」とか、「思いやり」とか。あまり違いはわかってなくて、そうするもんだと思ってた。それが処世術だろうって。

はっきり言って「逃げ」ですね。こうすれば、差し障りないだろう。そういう選択です。究極の自己中ですね。まったく客観視はしないで、差し障りのない言葉を並べて、様子を伺うわけです。スネ夫的って言ったらわかりやすいかな。見た目は出来杉くんなんですけど。

そこを見抜かれると信用を失うわけですけど、すぐに取り繕うので、騙される人はいるわけです。

いちばん問題なのは「勝手に」相手がこうだろう。と先回りして考えることにある。「気を使う」場面ではないのに、変に気を使う。かなり歪曲して解釈をして。必要以上に「人が怖い。人がぼくを見る目が怖い。」が前提としてあった。

そういう先回り思考やってたなぁって、今気づいている人間です。58歳なんですけど。気づくのって歳関係ないみたいです。いや、かなり遅いとは思うんだけど。

ぼくは小さい頃、吃音でいじめられっ子で、一方でクラス1の秀才でした。常に周りに気を使って、逃げていた。見事にそのパターンにはまってしまっていたわけです。吃音は中学に入って、徐々に出なくなりました。見た目は出来杉くんなので、そのまま人に認められてしまった。

こう書くと、本当の秀才には失礼ですね。ある意味、馬鹿でした。ただずる賢かっただけ。

今の自分を貶めたくて卑下したくて、この文章を書いているわけではないんです。あー、もうちょっと早く気づきたかったなという気分はあります。

今、やっているのは、こうかな、こう思われているのかなという思考を徹底的に手放すということ。自分を自我で見るんじゃなくて、外から見ること。人と同じ空間で自分を見ること。

必要のない不安を持たないこと。

同じように悩んでいる人、いるんじゃないかな。これから、ぼくがいろいろアウトプットすることで、これを読んで気づく人が増えたらいいなと思う。平和よりも調和がいい。そう思う。

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できることは限られている

一人ひとり、できることは限られている。そういうと、夢の無いことを言うと思われるかも知れない。夢を持ち、夢に向かって頑張れば、努力すれば、なんだってできる。そう思いたいのが人間だ。

夢をあきらめないで、実現したヒーロー、シンデレラストーリーに皆が憧れる。

しかし、これまでにまったく違う自分を実現した人は一人もいない。自分に何ができるのかを認識して、それを生かした人だけが、ヒーロー、シンデレラになれる。

この法則に例外はない。

自分をみつめよう。そして、自分に問いかけよう。本当にやりたいことをやっているのかどうか。心が喜んでいるのかどうか。

人の目を気にする必要はない。自分がやりたいと思えばいいし、心が喜べばいい。