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essay

ふりをする、らしく生きるって、・・・・何。

なんかさ、自分自身、そうだったと思うんだよね。

らしく、振る舞う。ふりをする、演じていたって。

そりゃまぁ、誰しも、常に自分の人生を演じてはいるんだけどさ。

たとえば、ぼくはあと半年ほどで60歳になるわけだけど、からだはたしかにいずれ老人になるわね。衰えるだろうし、ボケるだろうし(既に片鱗はある)。これまで以上に病気もするだろう。

けどさ。中身がどれだけ変わったかっていうと、ものごころついてから、変わっただろうかって思うんだね。

そしたらさ、無理に体に合わせる必要なくない?って思うわけ。

体はしょうがないのよ。いつでも、そのまま肉の塊として、あるんだから。常に変化するのよ。

男らしく?いや、男だけどさ。その前に人間だし。

社会的に地位のある者として、威厳を持って?いやいや、それ、要らないし。

ぼくは、ぼくだ。

やっと、最近そう言えるようになった。

体は変わる。それに合わせて自分を変えるんじゃない。60歳の平均的社会人間に合わせる必要はないよ。何歳だってそうだ。二十歳になったから、いきなり大人になるわけじゃない。みんなふりをしてるだけ。

もう、ふりをしなくていいんだわ。

自分の穴ぼこを探して、埋めようとするのはもうやらないでいいんだ。

ぼくは、ぼくだ。

「ふりをする、らしく生きるって、・・・・何。」への2件の返信

こんばんは。

素晴らしいことです。
自分は自分。ってなかなか言えませんよ。
見栄を張っちゃう訳でして。
自信がないから。

そして、自分に正直に生きている人を羨ましいと思ってしまうのです。「ふりをする」ことで、見栄とバリアをはっている自分がいるので。

見栄とバリアの正体って「怖れ」ですよね。

それがどこから生まれたのか。

ぼくの場合は、ブログでは書いていない(まだ書けてはいない)んだけど、父親の存在がありました。父親は、もうとっくに亡くなっているわけなんですけど、幼いころから常に怖れていた、腫れ物に触るような存在だった。

ある日の出来事、そこに至るいきさつ、なんでそうなったのか、まったく記憶にないんだけど、真冬の暗い夜に雪の降りしきる中、家を追い出されて、鍵を閉められた。それは、たぶん小学校に上がるかくらいの時期だったと思う。ぼくが何か粗相をしたんだろうと思う。

そういう原体験があって、当時上級生からもいじめられていたし、職員室でもからかわれる存在だった。もちろん、かばってくれる先生もいたけれど。

何度も自傷、自殺未遂、無謀なケンカを繰り返して、その記憶が断片に残っているんだけど、小学校~中学校の間の記憶は今も、途切れていて、あいまいです。

最近、ようやく、自分を見つめ直している、そんなところです。

コメント、ありがとうございました。

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