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essay

忖度なんかするもんじゃない。

「忖度」なんて、前は読めなかっただろうし、この熟語、知らなかったよ。

2017年の森友・加計ですよね。この言葉が出てきたの。2年前。もう、そんなに言わないですけど。何も解決してないんで、そっちも気にはなりますけど、森友・加計は置いといて・・・。

ぼくは、言葉は知らなくても、これまでいろんな場面で忖度してたなと思う。「慮(おもんばか)る」とか、「思いやり」とか。あまり違いはわかってなくて、そうするもんだと思ってた。それが処世術だろうって。

はっきり言って「逃げ」ですね。こうすれば、差し障りないだろう。そういう選択です。究極の自己中ですね。まったく客観視はしないで、差し障りのない言葉を並べて、様子を伺うわけです。スネ夫的って言ったらわかりやすいかな。見た目は出来杉くんなんですけど。

そこを見抜かれると信用を失うわけですけど、すぐに取り繕うので、騙される人はいるわけです。

いちばん問題なのは「勝手に」相手がこうだろう。と先回りして考えることにある。「気を使う」場面ではないのに、変に気を使う。かなり歪曲して解釈をして。必要以上に「人が怖い。人がぼくを見る目が怖い。」が前提としてあった。

そういう先回り思考やってたなぁって、今気づいている人間です。58歳なんですけど。気づくのって歳関係ないみたいです。いや、かなり遅いとは思うんだけど。

ぼくは小さい頃、吃音でいじめられっ子で、一方でクラス1の秀才でした。常に周りに気を使って、逃げていた。見事にそのパターンにはまってしまっていたわけです。吃音は中学に入って、徐々に出なくなりました。見た目は出来杉くんなので、そのまま人に認められてしまった。

こう書くと、本当の秀才には失礼ですね。ある意味、馬鹿でした。ただずる賢かっただけ。

今の自分を貶めたくて卑下したくて、この文章を書いているわけではないんです。あー、もうちょっと早く気づきたかったなという気分はあります。

今、やっているのは、こうかな、こう思われているのかなという思考を徹底的に手放すということ。自分を自我で見るんじゃなくて、外から見ること。人と同じ空間で自分を見ること。

必要のない不安を持たないこと。

同じように悩んでいる人、いるんじゃないかな。これから、ぼくがいろいろアウトプットすることで、これを読んで気づく人が増えたらいいなと思う。平和よりも調和がいい。そう思う。

「忖度なんかするもんじゃない。」への2件の返信

こんにちは。お久しぶりです。
楽しみに読んでますよ。

やさしいんですね。きっと相手の事をほんの少し考えすぎちゃっているのだと思いますよ。
もちろん自分の考えに蓋をする必要はないのですが、「思いやり」は大切なことだと思います。

ただ、自分の思ったことを素直に言える人は羨ましいなと思います。やっぱり、私も他人の目を気にしてしまう方なので。

コメントありがとうございます。
「相手のことを考えて」いたと、自分でも思っていました。
それが自分の中で勝手に想像していた相手の姿で、本当の相手の姿とは似ても似つかないものだったと気づいたというわけです。
ある時、それに気づきそうになったときに、自分が怖くなりました。
それがようやく、この1年かちょっとですけど、見えるようになりました。
こういったことが言葉になり始めたところです。
わかりにくいところもあると思いますが、これからもどうぞよろしくお願いします。

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