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今感じていることを、声に出す。

直接感覚で感じることは、わかります。声に出ます。

「痛い!」

「ハラヘッタ。」

「トイレ行きたい〜。」

理屈で考えると、感覚を忘れていることがあります。

何かに夢中になると、おなかすいてたのを忘れるみたいに。

どうしようかな〜っと、迷っていると、今度は忘れるのではなく、感覚を抑えていることがあります。

「おなかが痛いけど、気のせいにしておこう。」

「おなか空いたけど、我慢しようかなぁ。」

「おしっこ漏れそうだけど、ハズカシイなぁ。」

それも度が過ぎると、自制が始まります。そうなると、感覚を否定することになります。

「こんなことでお腹が痛くなるハズがない!」

「朝トースト1枚食べたし、食べなくてもダイジョウブ。」

「トイレに行きたくなるなんて。今日はもう水を飲んじゃだめ。」

この例は、極端かも知れないけど、感覚って、だんだん見えなくなることがある。

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見えてるハズなんだけど、ごまかしてるってやつ。

自分の感覚を否定していたのが、他の人のせいになると、これはヤバイ。

そうなる前に、

自分に言う。声に出して言う。今感じたことを言う。

誰かに言う。声に出して言う。こんなふうに感じたんだけど。

言える。言おう。そうしようと思う。

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ムダな努力は報われない

ぼくは、ものごころついた頃から、「できる」「できない」の価値判断で生きてきたように思います。

「できる」ほうが「優れている」。

だから、人より、もっと、いろんなことを、高度に「できる」ことを目指していたわけです。

それが、当たり前だと思っていました。

もっと、できるようになりたい。優れていると、人に認められたい、評価されたいという「認められたい病」だったわけです。

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この考え方には、はっきりした落とし穴があります。

「できない」ほうが「劣っている」という思考が同時にあるわけです。その思考が自分の中にあるとは思っていません。無意識が、その思考を隠しています。

ものごとにはすべて裏表があるわけですから、隠しているつもりでも、人には見えています。

そういう意味では、ぼくは、サイッテーなやつでした。今は、それが、わかります。

自分自身、できないことがあると、自分を恥ずかしく思っていたし、そう思われたくない不安をずっと抱えていました。

当たり前のことですが、できる、できないというのは、「状態」に過ぎません。ニンゲンは空を飛べません。劣っているわけではなく、ただ飛べないという状態があるだけです。

「努力はいつか必ず報われる」と信じている人もいると思いますが、そんなことはないと思います。どんなに努力してもニンゲンは空を飛べません。ぼくはぼくである限り、ぼく以外の人になることはできませんでした。

いやいや頑張ること。
妄信的に行うこと。
人のためだけにやること。
流れにさからうこと。

これは、ぜんぶ、ムダな努力です。これに「あなたのために」というアピールが加わると、偽善です。もっと言えば、それはストーカー的な犯罪であり、暴力です。

それでも、こんなに頑張ってるのに、努力してるのにって思っていたわけです。何を見ていたんだろうか。

いやいや頑張ろうとしない。
盲信しない。
自分をまず見ること。
人と、流れを見ること。

できる、できないではなくて、何を感じるか。楽しいか、つまんないか。それをまず自分自身で感じられるか、人に伝えられるか、人がどう感じているかに意識を向けられるか。その上で、人にどう伝えるか。

言葉にすれば、なんだか、アタリマエのこと。

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自分とコミュニケーションする

ぼくは、ずっと、自分で恥ずかしがり屋の口下手で、コミュニケーションが苦手だと思い込んでいた。

このところ、自分自身を振り返る、見つめるということを考えていて、それって、人に対してじゃなくて、自分自身に対して、コミュニケートしていなかったんじゃないかって思った。

人に合わせて、何かしようとすると、ほら、例えば、下心満載の20代だった頃、好きな女性と話すことがうまくできなかったりする。

それって、その人に一所懸命合わせようとしていて、相手はおろか、自分自身をも見ていないからだったんだなとやっと気付く。

20代の女性に合わせられるアイテムって、男の自分がそんなに持ってるはずないもの。

せいぜい、映画とか、本とか、動物とか、遊園地とか、美味しいものとか、そういうもので合わせようとしてしまって、堅苦しくなって、別れてしまってた。何度も何度も。

「ぼくは、こう思う。」「こんなふうに感じたんだけど、どうかな。」

そんなふうに話をしないわけじゃないけど、合わせようと必死で焦ってると、それが見えない。

そうだったんだ。ぼくは、自分とコミュニケートをすることができていなかったし、その視点が抜け落ちてしまうことが、今の今までよくあったんだ。

それが相手を退屈にさせていたし、傷つけて、傷つけあったりもしていたんだ。

なんてこった。

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自分自身とコミュニケートできれば、何も怖がらなくていい。

そして、世界はそこにある。世界ともコミュニケートできる。

そう考えれば楽しい。

ぜひ、そうありたい。

自分をアウトプットする

吐き出さにゃ。。。

この文章を、あとで読み返したら、自分で何かわかるかな。

今、自分を見ようとして、なんだか、深みにいるような気がして。

常に、おまえはどんなニンゲンなんだって誰かに尋ねられてる気がする。

自分を、吐く。

自分て、なんだ。

気がついたら、1時間でも2時間でも考えてる。

そんなに時間かけても、ぼんやりしてる。

それって、ぼんやりしてる自分があるんだろう。

ぼんやり。カオス。

それが、今の自分。

知識を得て、何かをインプットして、何かをこつこつやるのは、やってきた。そこに意味は?

感性は。

感じることに意識を向ける。

何を感じるか。

漠然と不安だ。

何だ、その不安は。

見えない不安か。

そうだ。何かをこなすことで、その不安から目をそらしてきた。

何を感じるか。

そこを見ていたはずなんだけど、どっか、目をそらしてたように思う。

何かこなせたらいい、何かできたらいい、ただ流れたらいい。

どっか、そんなふうに過ごしてきた。

こなさんでいい。できんでいい。流れんでいい。

見る。

逃げてるから、見えないから、それで不安なら、見続ける。

正体のない不安は消さねば。目をそらさずに。

見続ければ、本当の正体は見えるはずだ。

見る。見えたものを、断片でもいい。こうやって吐く。

今、見えるのは、ぼんやり、カオス。

今、こなしてること、できてること、それは、本当にやりたいことなのか。

ぜんぶ捨てるつもりで、自分を裸にして、見る。

何が見える?

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そこにあるハズの意味

人生の99.9999%が意味のないことだとしたら、そう考えたら、ぼくは生きてはいけないだろう。

そこを考えることができなかった。そこが怖かった。

だから、意味の代わりに結果を追い求めていたんだろうと思う。

こうすれば、こうなる。

こうすれば、こうなる。

つなげた結果を評価された。

意味ではなく、できた、結果がそこにあった。

意味を置いていった。

意味とは?

心。

心を置いて、何ができたところで、カンペキにできたところで、意味はない。

必要なのは、方法論ではないと思う。

方法論だけをさぐっていくと、堂々巡りが始まる。

比べると、できた方が、優れているように見えるだけ。

たかだか50年だか、60年だかを捨てられずに、死ぬまで生きられない。

今、ここからだと思う。

そう、考えます。

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浮き立つ胸のボタン

朝、時間に余裕があるときなど、ほんとうに気が向いたときだけですが、今日一日着る服のアイロンがけをします。

シャツ1枚くらいなら、15分くらいでできますから、心を落ち着けるのに、とてもいい時間になります。

毎朝準備する1枚のハンカチにもアイロンをかけます。洗濯したてのハンカチには、端のほうに、折れたようなしわができます。そのしわをくるくる回しながら伸ばして、あとは全体に中心から外に向かってアイロンをかけます。5分もかかりません。アイロンのかかったハンカチは、手触りがとても気持ちいい。どこかでトイレに行って、手を洗ったらそれまでだけれど、朝アイロンがけをしたハンカチは、それを持っているだけで、心が落ち着くような気がします。

ハンカチは、昨日のハンカチ、その前の日のハンカチくらいまでだいたい3枚くらいは持ち歩きます。少し汚れたものを拭くときは、昨日のハンカチを使って、1日の途中でも、洗面所で洗います。車の中で乾かせば、また使えます。

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さて、すっかりしわの伸びたシャツに袖を通すのは、気持ちのいいことです。

ふと鏡を見ると、胸のあたりに小さな突起が見えます。

シャツのしわが伸びているので、鏡の前で胸を張ると、右の乳首がボタンのように浮き立って見えるのです。左にはポケットがあるので、わかりません。

立ったり座ったりしているうちに、裾の方からしわが伸びてくるので、だんだん目立たなくなりますが、アイロンがけをしてすぐは、ほかにしわがないので、よくわかります。

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思い込み、というだまし絵

ぼくはこれまで、自分で「抱えている。」「たくさんある。」と思っていた仕事を、少しでも手際よくこなすために、まず頭の中で段取りを組み立てて、その段取りに従って様々なことをやってきた。

その「要領の良い、優秀な頭脳」(そう思い込んでいるだけ)らしきもので、実績も残してきたし、自分でも、これでいいんだ、このままでいいんだと考えていた。結果がすべてだと。

けれど、思い出してみると、段取りそのものが、他の人から見ると、かなりの確率で的外(まとはず)れだったことが多かったと思う。それでも修正をしながら進めていき、「結果を残してきた。」と、そこでもまったく省みることはなかった。

周りを見回してみて、世間的に優秀だと思われている人ほど、「こうあるべき。こうした方がいい。」という「思い込み」に縛られ、自分がその『だまし絵』にとらわれているということに、なかなか気づいていないんじゃないかと、ふと思うようになった。自分はどうなんだろうかと。

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ぼくは、感じている心を後回しにしていたんだと思う。

すぐに対処しようとした。拙速に行動に移していた。そこに心はなかったのかも知れない。その証拠に、心はいつも不安を抱えなければいけなかった。「これでいいんだろうか。」「どうなるんだろうか。」じゃあ、今度はこうしようか。いや、こう考えよう。そうやって、思いを空回りさせていた。

「迷いながらもがんばって生きていく。」それがニンゲンだ。そう思えれば、それでいいだろう。

しかし、そうやって知らず知らず、人を傷つけていたとしたらどうだろうか。「だって、こうだったから。」「こう言われたから。」言い訳は、本来、必要がないし、するべきことではないと思う。

ぼくは、気づけば当たり前のことなんだけど、とても大事なことに気づき始めたように思う。

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置く、捨てる、移動する

モノを手に入れる、持つ。モノを使う。

本来は、そのひとつひとつに意味がある。・・・はず。

で、

「欲しいから。」という。

「どうして?」と尋ねてみる。

「なんとなく・・・。」

なんとなく、それが感性なら、それもアリ。

感性の、その「なんとなく。」に意味があるのだろう。

きっと。

で、なんとなく、で。モノが増える。

どんどん、どんどーん、・・・増える。

いらんじゃろう。そんなに。

なんで? どうして? なんで?・・・。

今までずっと、「なんで?」を繰り返していたと思う。

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そうこうしているうちに

「モノを移動する」が「モノを片付ける」

と同義語にすり替わった。

自分ですり替えた。

自分ですり替えたことに気づいていなかった。

モノを移動させて、いらないものを隠して、それで、

片付けた、整理した。

そう思い込んでいた。

モノは増えるばかり。

いらんじゃん。こんなに。

60歳手前で、こんなことに気づく。

これは、正真正銘、バカです。

いや、60歳手前とか、年齢は関係ない。

死ぬのに年齢はない。成長するのにも、年齢はない。

老いていくのは、この次元の物質であるカラダの都合でしかない。

モノは自分のモノではなく、この世界の所有物でしかない。

置いておくなら、放っておく。

いらないのなら、捨てる。捨てる、とはこの世に返すこと。

せめて、意味があるものだけ、いつくしもう。

少し、考えました。

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ボクがブログを書くワケ

ある日わかったこと。

ボクはこれまで、ただ「思い」がぐるぐる回るだけで、それって実際には考えているようで、考えていなかったのと同じなんだなということ。

そういうのって、あまり見たくない自分の姿だったりする。

その自分の姿にフタをして、見ないふりをしようともした。きっと、今まではそれも自分では気付いていなかったこと。

やっぱりただ「思う」だけでなく、もっとありのままの自分を見て、考えたいということがあった。当たり前なんだけど、自分が見れないと、人のことがわからないわけだから。

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ずっと人の評価を自分の姿だと勘違いして生きてきたと思う。

「何々ができる」とかっていうのは、あくまで「結果」でしかない。その「結果」を人に「評価」されていると思うわけだ。そして、その結果と評価に合わせて「できる自分」を演じようとしていた。

今、世の中には、そうやって「やるんだ。」「できるんだ。」って、「頑張っちゃてる」人があふれているような気がする。

人の期待ってけっこういい加減なものなんだけど、そう思えなくて、期待に応えようと頑張っちゃうのね。

がんばるのもいいんだけど、まず自分を見て、人を知りたい。本当に何が起こっているのかをわかりたい。そういう意味で、ここに文章を書いてみようと思った。

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モノのバーチャルな時代

人がモノを所有するのは、そのモノを自分だけが自由に使いたいということのほかに、所有することが安心であったり、自尊心を満足させるモノだったりする。

だから、モノそのものに質感や価値のないモノは、さまざまなことが、こうしてバーチャルな時代には、消えてゆく運命なのかもしれない。

たまに懐古趣味というような、ぼくが思うには、あまり意味があると思われないモノが一度消えかけて、再び脚光を浴びるみたいなことがある。

カセットテープやレコードなどがそうだ。

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レコードはわからないでもない。CDに比べて大きなジャケット・デザインが飾ってもいいと思えるものがあるからだ。

それに、高級なオーディオを既に所有している人がいて、レコードで音楽を鳴らしたいと思う人がいるからだ。

そういう人は、レコードに記録された音を余すところなく再現することで、特定の周波数でカットされるCDでは得られない臨場感が得られるのだと主張する。ぼくは、何も無理やりチープなラジカセと比べる必要はないだろうとは思うのだが、その人がこれまでかけた情熱とお金を否定することになりかねないので、うかつにそんなことはないんじゃないなんて言えない気がしてる。もちろんレコードの良さを否定するつもりはまったくない。

カセットテープやVHS、フロッピーディスク、MDなどについては、よくわからない。

ぼくも、そう言いながらも、捨てられずにいる古いメディアが押し入れのケースの中に入っていたりする。

もういいんじゃないかな、美的な価値のあるモノ、存在することに意味があるモノ以外は、バーチャルなモノに置き換えちゃえば。

ひょっとしたら、世の中には、食べ物と、自然と文化、芸術しか残らなくなるんじゃないかな。まず、働くためのオフィスとかいらなくなるでしょうし。

そう思いながら、どんどん身の回りのモノを捨てつつあります。連休は掃除しましょうかね。
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