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「いただきます。」の姿勢を思いながらオカリーナを吹く、ということ

これは、「はてなダイアリー」「オカリーナ、日々雑感」に掲載していた2013年(平成25年)7月3日の記事を書き直したものです。

皆さん、ごちそうを目の前にして、手を合わせるとき、どうしていますか。
おそらく、世界中の誰もがそうだと思いますが、ごちそうをにらんだり、鼻息荒く、肩をいからせる人はいませんね。

もしも「いただきます。」と、手を合わせる習慣を忘れている、という方がおられたのなら、その時は、お祈りのときのことを想像してください。

あるいは、神社の賽銭箱の前で、金額に見合わない願い事を思うときのことを。

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ほら、素晴らしくステキな姿勢をしていると思いませんか。合掌ではなくて、両手を組む場面もあるでしょう。力まずに背筋がすっと伸びて、正面をしっかり向いていますね。人は、こういうときの姿勢は実に自然でのびやかです。

こういう姿勢で歌を歌い、楽器を演奏してほしいのです。

いつもこの姿勢のことを想像してください。そして、楽器に慣れないうちは、手や肩に力が入ってないだろうかと、ひとつひとつを点検しながら、ゆっくり長い音から吹き始めてください。

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スルスルこうそですっきりな体へ

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楽譜ってなんだろう

楽譜ってなんだろう。

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先日ステキなジャズ・ピアノの演奏を聞きました。

そのピアニストの名前は、中島徹(なかじまとおる)さんという方なんですが、今ネットで検索したらピアノだけでなく、トロンボーンもされるんですね。

聞いたのは、ピアノです。ボーカルとベースという編成で。

ステキでした。

そのライブについては、また書こう書こうと思いながら、どんどん月日が経ってしまいそうな予感が徐々に的中しつつあります。

ライブそのものもボーカルも、ベースもステキでした。

そのピアニスト、中島徹さんが、著作の本を持ってきたんですね。

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この「プロフェッショナル・ジャズピアノ」という本でした。ライブの中で、ご本人が言われたのは、「これは楽譜にCDがおまけとして付いているのではなくて、CDがメインなんです。そのCDのライナー・ノーツが、たまたま楽譜付きの本になったものなんです。」という説明をしてくださいました。

よくわかる話だなぁと思いました。

「楽譜は、そのCDのピアノ演奏を聞いた出版社の方が、耳コピをして、あとで書き起こしたもので、私がその楽譜を見て、自分で演奏しようとしたらできなかった。」とも言われました。

できないハズはないので、多少誇張して言っているのだと思いますが、これもよくわかります。楽譜って特にジャズのアドリブを書くと、やたらむずかしくなります。楽譜を見た感じも、それを見て演奏しようとすることも。

だからこそ「ジャズって難しい」と言われたりするのは、そういうところにも表れているような気がします。

聞いていてシンプルで心地いい音楽が難しいハズはないし、それが「楽譜」というフィルターを通してみると、とたんに難しく感じられるものになる。

たとえば、耳で聞いて「ドレミファソラシド」って聞こえたとしても、楽譜にするとやたらシャープやフラットがついちゃったりするわけです。

楽譜って、記号のカタマリなんです。地図みたいなもの。

実際街を歩いたら、風も吹くし、青空が見えたりするわけです。ひょっとしたら寒い寒い嵐の夜かも知れないけど。

楽譜って、そういった感覚的なものを一切省いて、誰が演奏しても同じようにできるように、リズムや音の高さを記号で表したものなんです。

だから必要なのは、まず「音」なんだろうなあと思います。そして、それをどう感じているのか。心地いいのか、楽しいのか。

いつもそこから音楽が始まるといいのになあと思います。

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人間の本質は、区別?

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人間の本質は、区別をつけるということではないだろうかと考えます。動物にもありますが、動物の場合は、ニオイだったり、仕草だったり、生きる本能から生まれる区別です。

人間は、あらゆるものに対して、意識的に区別をします。

善か悪か、得か損か、ひとつひとつの価値判断をするということだと思います。

そうやって判断をしても、判断が分かれることがあります。環境や習慣によって違いが出てくるからです。ですから、法律や決まりを作って、区別しようとします。

法律の及ばない個人的な事柄になると、見た目に影響を受けて、価値判断が左右されます。めっちゃぶれまくります。人間の価値判断って結構アバウトです。

自然にはもともと善も悪もありません。自然は常に循環です。人間はこの自然の循環から逃れて、人間を確立させようとする、そんな存在です。

ですから、人間は「自然を利用する。」という言い方を平気でしちゃいます。「自然の恵み」とも言うけれども、それは上辺だけ。「自然を利用しているんだ。」というのが人間の考え方の基本です。

しかし、誰もが死を迎え、自然に還ります。大きな循環の中に戻るということです。

ああ、ええと。なんだか、ここに書いたことは、宗教的な哲学的な内容になっているのかもしれませんが、ぼくが考えるのは、区別するということは、自然との対極の考え方なんだなと思ったということです。

人間も他の生命と同じように、自然の大きな循環の中にいる存在です。善も悪もない、特も損もない。ぼくの体の中を流れる循環を感じながら、ふと考えたことです。

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わたしバージョン2018

パソコンには、更新があります。

なんでそんなに頻繁に更新して、バージョンアップするんだろうと思います。機械だからでしょうか。インターネットにつなぐからでしょうか。バグ(小さなミス)があるからでしょうか。

パソコンには「バックグラウンドプロセス」といって、何もしていなくても電源が入っていれば、バックグラウンドで動いているプロセス(プログラムの動作)があります。

ニンゲンの体が新陳代謝を繰り返しているように、目に見える更新だけではなくて、目に見えない更新をしているのです。

ニンゲンも更新をして、常にバージョンアップしているわけです。そして、パソコンもニンゲンも、実はバックグラウンドプロセス(新陳代謝)の方がとても大切だったりします。

ただ電源を入れておけばいいんです。

パソコンは使わないときでも、時々電源を入れると調子いいのはそういうことなんです。

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ニンゲンには電源はありませんね。心も新陳代謝しています。無理やり詰め込む必要はないのです。バランスが大切です。ニンゲンは年齢とともにただ衰えると考えがちですが、それぞれの年齢のバランスで生きているのです。

バランスを整えて、生きるのです。

なんとなく、4月1日なので、新しいバージョンのわたしです。

オホーツクの海の幸を全国の食卓へ

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呼吸が大事

心臓の役割は、体じゅうに必要な血液を隅々まで届け、生命体を維持するための「循環ポンプ」です。

脳の役割は、集中制御盤、いわゆる「司令塔」です。これも同じく生命維持に関わる機能です。

人は、呼吸することによって生きています。このことを否定する人はいないでしょう。

でも、人は、呼吸は二の次だろうと考えています。

こういう順番です。心臓が止まる。脳の機能が停止する。結果、呼吸が止まる。これが人の死だと受け止められています。

おおよそこれが、重要な順番だと決めつけているのです。

私は、考え方の根本が違います。

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私は「人は、無意識下の深層で、存在するすべての生命とつながっている。」と考えます。もちろん、このことを今の科学で証明する方法はないでしょう。

私は、そこに「氣」があると考えます。すべての生命が「氣」でつながり、宇宙の中で「氣」が循環しているのだと考えています。

ユングは「集合的無意識」と言っていたそうです。私の考えがユングと同じかどうかはわかりません。ただ、一般的に人々の考えでは、人は一人ひとりでまったく独立した生命体だと考えていると思います。遺伝子や設計書となるDNAによって、生命のカタチが作られるのだと考えています。でも、本当にそうでしょうか。

私は「氣」を通じて、私自身が宇宙を感じているように思います。そして、呼吸を通じて「氣」が循環しているように感じています。

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呼吸と「氣」を考える

昨年、2017年の秋ごろから「呼吸」ということをよく考えるようになった。

私が受け持つ県内15グループくらいあるオカリーナのグループを見ていて、それぞれに特徴があって響きが違う。個々の響きとともにグループ特有の響きもある。これはなんだろうかと考えたのがきっかけだった。

そうして見ていると、響きがあまり感じられないグループでは、一人ひとりの「呼吸が浅い」ということに気がついた。

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「呼吸が浅い」グループは、ぼくが話をしていると、穏やかな表情でじいっと聞いている。そういう意味ではおしゃべりが少ない上に熱心なのだが、最初のひと声、一音がなかなか出ない。だんだん調子は良くなるが、時間とともにまた呼吸が浅くなる。

そして、この呼吸というのは、グループ内で無意識に同調する。そのグループの「平均的な呼吸」に一人ひとりが近づいてくる。その結果、そのグループ特有の「雰囲気」が出来上がる。

呼吸というのは、心臓や脳とともに生命活動の中心にある。呼吸は、自発呼吸とともに、ある程度は自分でコントロールもできる。心臓の速さを変えることはできないが、呼吸の深さや回数は変えられる。

人は睡眠時、全身をゆるめてからだを横にした状態では、血液中の酸素濃度に応じて横隔膜が伸縮することで自発呼吸をしている。無意識に浅い腹式呼吸をしている状態になる。寝ている人を横から見ると誰もがおなかがふくらんだり、しぼんだりする様子を見ることができる。

呼吸は姿勢によっても変わる。目が覚めて、起き上がると、からだが運動を始めるとともに、胸膜をふくらませたりしぼめたりして、肋骨を動かして呼吸する。運動量に応じてじゅうぶんな呼吸を必要とするためで、この状態を胸式呼吸と呼んでいるが、極端に肩が上がり下がりするほどではない。

呼吸が浅い人は、このとき、あまり横隔膜が動かない。

オカリーナは椅子に座って演奏することも多いが、姿勢と呼吸についてはまた別の機会に書こうと思う。

私はこの半年、ふだんは鼻で呼吸をすること、ゆっくり深い呼吸を意識すること、息を吸う時はおへそのしたあたりを意識して、全身に「氣」が行き渡ることをイメージすること、などを考えるようになった。

オカリーナのグループの中でも、こんな指導をしている。

「家でお風呂に入るとき、体をお湯につかって、両手で胸とおへその下あたりに手のひらを当てて、鼻から湯気を吸うように5つくらい数えてゆっくり息を吸って、10から20くらい数えながらゆっくり息を吐く。息を吐くときは鼻でも口でもどちらでもかまわない。これを5〜6回繰り返すと、体がより温まります。自然な深い腹式呼吸が身につくと思います。」

もちろん、自分でも実践をしていることだ。お風呂は全身の力がゆるんでいるし、水圧があるので、深い腹式呼吸がやりやすい。

そして、最近は、オカリーナ教室だけじゃなくて、多くの日本人の呼吸がだんだん浅くなっているんじゃないかと思い始めている。もともと日本人は「氣」を生活に取り入れて暮らしていたんじゃないか。そのため、体格が小さく、質素な食生活でも生きてきたんじゃないだろうか。

飛躍しすぎだろうと言われるかもしれない。呼吸と「氣」のことについては、もう少し考えてみたいと思っているところです。

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呼吸について
忙しいを肯定しない
意識、無意識の世界

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忙しいを肯定しない

 手際よく立ちふり舞い「できること」を増やそうとすると、どんどん忙しくなる。そして、「あれが出来ていない。」「まだまだ」と思い始める。

 そんな状況になりそうになったときに、まず自分の意識に向かい、今既に自分がいろいろなことが出来ていることを認める。ゆっくりと呼吸を整えて、時間があれば、ストレッチをし、瞑想する。そうすると、放っておいていいことがどんどん意識から離れていく。

 実際、一人の人間が同時にできることは、いつもひとつかふたつぐらいしかないのだ。

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 能力以上のことをやる必要はまったくないし、今感じることに集中することで、結果的に能力が高まるのであって、能力を高めようとしてできることは、そんなに多くはない。

 「忙しい」と言うことばは、その字の通り「心」が「亡」くなるのであって、心を亡くさなければいいだけの話だ。手際が多少まずくても、出来ていないことがあっても、それは、自分がそう思うだけであって、人は気にしない。

 まあ、そうは言っても時間は過ぎていくんだけどね。それでも、たった1分自分を見つめ直すだけでも何かが変わると思う。

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私という現象を生きる

 いつ頃というと、2年くらい前は確実にそうだった。ぼくは、それまでずっと長い間、自分には何が出来るのだろうかとか、もっといろいろなことがちゃんと出来るようにとか。というようなことを、常にぐるぐると考えていたように思う。

 人と比べると、割とすぐになんでも出来た方だと思う。それなりに評価もされた。器用貧乏だったかも知れないが、それはそれで、自信にもなった。

 しかし、そうそういつもうまくはいかない。失敗もするし、批判もされ、叩かれる。出来るはずなのにと思うし、どうしたらわかってもらえるのだろうと更にぐるぐると考えを重ね、がんばってきた。

 きっかけについては、長くなるのでここでは書かないが、こうしたそれまでの考えを捨てた。ある日から、ここにある、そのままの自分を見つめてみようと思うようになったのだ。

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 最初は「自分を見つめる。」ということがどういうことかもわからない。「どうすればいいか。」方法を考えているうちはうまくいかなかった。ただ「自分を見つめる。」とだけ念ずるだけの毎日だったと思う。

 今思うことは、ここにあるのはすべて現象に過ぎないということ。

 このぼく自身も現象なのだし、反応なのだと。

 ぼくが何かしようと思うのではなく、今どんな現象や反応が起きているのか、その現象をどう捉えるのか、その意味を考えるようになった。

 ぼくが自分で感じられるこのカラダは、単にぼくのものではなく、ぼくと世界をつなぐ媒体だ。成熟したり、病気になったり、老いたりすることは、単に状態の変化に過ぎない。57歳の肉体は57年間生存しないと得られない。このカラダが持っている価値や意味は、今ここに、既にある。

 思い起こせば、これまでも、何かしようとしてがんばって出来たのではなかったのだ。このカラダにその時々に価値や意味があったから、結果として、出来ることがあったのだ。

 ぼくは、ぼくというカラダを持って、この現象を、価値を意味を見つめて生きようと思う。

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意識、無意識の世界

 前回、「意識、無意識は『氣』の循環によって形作られる。」と書きました(前回の投稿記事)。そのあたりをもう少し書いてみたいと思います。

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 人には五感(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)があります。五感で表せない感覚を「第六感」と言ったり、当岩美町出身の尾崎翠(おさきみどり)さんという作家の方は『第七官界彷徨』という作品の中で、さらに第七感〈第七官界〉があると記しています。

 一般には、こうした感覚を自覚することを「意識」といい、感覚のうち、自覚できない領域を「無意識」と呼ぶようです。

 ここで、もう一度「氣」について触れておきたいと思います。

 自然の中にいる動物は、「氣」に満ちています。身の回りにあるすべての世界を、呼吸を通じて、肌で、その瞬間瞬間に感じているからです。

 人間は「感覚」を「知覚(知識)」で補う存在です。「見ているようで、見ていない。」「聞いているようで、聞いていない。」匂いにも、味にも、触覚にも驚くほど鈍感です。こう書くと、その鈍感さに、誰しも「自覚」はあると思います。どの感覚もわざわざ「研ぎ澄ます」ことをしないと働かないのが人間です。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえ、感覚を研ぎ澄まそうとしている人もたくさんいます。しかし多くの人は「感覚」を、さらに多くの「知覚(知識)」で補おうとします。その結果、どういうことが起きるのか、想像できるでしょうか。「知識」「思考」を「意識」だと思い込むのです。そして、その「意識」を自分自身の「意思」だと誤解することがあるようです。事実、その「意識」にはその人にとっての「意味」がありません。

 「こんなときは、こうするものだ。」「有名な先生が言っていた。」「あの人は、こんな人だ。」意味ではなく「理由」を探してこんな言葉を投げつけられることがあります。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえることで、「知覚(知識)」が、正しく「知性」として働くのではないでしょうか。そして、行動に現れるのは「無意識」の領域です。「意識」が捉えられないと、「無意識」は正常に働きません。意識、無意識の世界のバランスが保てないために、現代の人々は多くのストレスを抱えているように思えます。

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呼吸について

 高僧が修行をすると、見えてくるものは超人的な悟りの世界だと言います。

 より位(くらい)が高くなり、一切の欲が消え、仏の言葉を授かるのだそうです。食を切り詰め、滝行などの苦行を経て、死の淵をさまようこともあるそうです。

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 私はそうした仏門の身ではありませんし、そういう修行とは無縁に思えます。

 そんな私も、それでも自分自身を内面から見つめたいと思うことはあります。

 自分自身というものは、人からどう見えるかという外面だけではありません。

 内面は、見たり聞いたり触れたりできる、知覚できる世界ではないので、自分自身の感性と思考を通じて、魂そのものを見つめることになるのだと思います。

 さてさて、その魂というものも、見ようと思えば思うほど、もともと見えるものでもないので見えなくなります。こうした五感で感じることができないものをどうやって、自分自身の感性と思考とが捉えられるのでしょうか。やはり苦しい修行をする必要があるのでしょうか。それとも哲学のように自分に問いかけるのでしょうか。

 ふと、生命の根源は呼吸なのではないかと考えました。空気を吸い、酸素を取り入れて、残りの空気を吐き出すあの呼吸です。

 ある時雨宿りで、緑の木立の中でただ佇んでいました。そのときにまったくその木立の呼吸と同期しているような感じがしたのです。動物の呼吸と植物の呼吸はまったく異なるものですが、どちらも生命の根源なのだと教えられたように感じました。そこにあるのは「氣(き)」です。

 「氣」がすべての細胞に行き渡り、歯車が動力を伝えるように、動き始めます。心臓が休むことなく鼓動し、肺が収縮と拡張を繰り返します。

 たとえば、ただ「歩く」という動作も、そうした一つ一つの歯車が伝わって初めて実現します。すべてがバランスする必要があるのです。

 こうして自分自身を見ようとしたときに、「氣」が作り出すエネルギーが循環することによって、人は行動し、思考が生まれ、そこに意識、無意識が形作られるというイメージが浮かびました。

 その意識、無意識については、また書いてみたいと思います。

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