いつ頃というと、2年くらい前は確実にそうだった。ぼくは、それまでずっと長い間、自分には何が出来るのだろうかとか、もっといろいろなことがちゃんと出来るようにとか。というようなことを、常にぐるぐると考えていたように思う。
人と比べると、割とすぐになんでも出来た方だと思う。それなりに評価もされた。器用貧乏だったかも知れないが、それはそれで、自信にもなった。
しかし、そうそういつもうまくはいかない。失敗もするし、批判もされ、叩かれる。出来るはずなのにと思うし、どうしたらわかってもらえるのだろうと更にぐるぐると考えを重ね、がんばってきた。
きっかけについては、長くなるのでここでは書かないが、こうしたそれまでの考えを捨てた。ある日から、ここにある、そのままの自分を見つめてみようと思うようになったのだ。
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最初は「自分を見つめる。」ということがどういうことかもわからない。「どうすればいいか。」方法を考えているうちはうまくいかなかった。ただ「自分を見つめる。」とだけ念ずるだけの毎日だったと思う。
今思うことは、ここにあるのはすべて現象に過ぎないということ。
このぼく自身も現象なのだし、反応なのだと。
ぼくが何かしようと思うのではなく、今どんな現象や反応が起きているのか、その現象をどう捉えるのか、その意味を考えるようになった。
ぼくが自分で感じられるこのカラダは、単にぼくのものではなく、ぼくと世界をつなぐ媒体だ。成熟したり、病気になったり、老いたりすることは、単に状態の変化に過ぎない。57歳の肉体は57年間生存しないと得られない。このカラダが持っている価値や意味は、今ここに、既にある。
思い起こせば、これまでも、何かしようとしてがんばって出来たのではなかったのだ。このカラダにその時々に価値や意味があったから、結果として、出来ることがあったのだ。
ぼくは、ぼくというカラダを持って、この現象を、価値を意味を見つめて生きようと思う。
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「私という現象を生きる」への2件の返信
久しぶりにコメントさせて頂きます。
自分の事を「媒体」とか「現象」と考えられるって凄く客観的ですね。その上で「意味」や「価値」を考える、難しすぎます。私には。
私は今の出来事をこなすのが精一杯、自分を見つめる余裕がありません。本当は余裕ではなく、そういう事を怠っているでしょう。
自分の存在に「意味」や「価値」を見いだせたら、それはとても幸せなことだと思います。
李さん
いつもありがとうございます。
はは。そうですね。難しいですね。ぼくにとっても、今も難しいです。自分を見つめることは。自分を見つめるのもこんなに考えてしまう。
やっと外の殻は脱げたけど、まだぼくの心の内には殻があるって感じなんですね。
でも、たぶんこれからは、そんなに考えないと思います。もうちょっとナチュラルになれるんじゃないかなぁと希望を持っています。