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パソコンで年賀状。

鳥取市の湖山地区公民館で、パソコンで年賀状を作る講座4時間が終了しました。

今回作成した講座の資料です。

「筆ぐるめ」で「連名」が入力されているのに、プレビューに表示されないという現象がありました。カードを作り直すことで回避できますが、これは今もって謎です。

「筆ぐるめ」Ver.19では、「宛て名専用」の入力画面があって、「自宅」か「会社」を選ばないと「一覧表示」ができない仕様となっています。

いろいろハプニングもありましたが、にぎやかで、和やかな楽しいパソコン講座になりました。

パソコン教室のエフセブンのホームページ「レッスン♪出前します!!」

年賀状は書かない、出さない。

私自身は、20年近く1枚も年賀状を書いたことがありません。来ても、返信しません。年々音信不通になる方が増えますが、しょうがないことかなと思っています。

きっかけは、ある年の年賀状が500枚を超えたことでした。次の年は枚数を制限して、出す人、出さない人を振り分けようとしましたが、無駄に時間を費やしただけでした。

SNSが普及し始めた頃だったので、交流のある人とは、常につながっているという感覚があって、年賀状は費用も時間もかかるし、無駄だと思うようになりました。

年賀状がなければ、切れてしまう関係がある。

ふだんは交流がないけれど、ほぼ「生存確認」のような細い糸としての旧友とのやり取りというのも、歳を重ねるごとに意味があるのかなと思います。

そんな風に旧知の方とだけ年賀状のやり取りをしている方もおられます。出張でパソコンサポートやレッスンをしているので、この時期だけ、呼ばれることも多いです。

そういう方は、パソコンに触るのも、年賀状の時期だけで、プリンタの電源も久しぶりに入れるみたいな感じです。

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迷ったら捨てる。

必要なのか、どうか。迷ったら、捨てる。
使えそうなものなら、人にあげる。
積んでおかない。押し込まない。
見えるところに、縦に収納する。

断捨離。

一時期「断捨離(だんしゃり)」という言葉が流行ったことがあるけど、最近はあまり聞かない気がします。

本当に必要なものだけを持ちたい。

本当に必要なものだけに囲まれていたい。

古くても、少々傷だらけでも、必要なものは大事にする。新しいだけの魅力に惑わされない。

使い捨てのものは、なるべく使わない。

どんどん、シンプルになる。

ティッシュじゃなくていい、ハンカチがある。
風呂に入る前に脱いだシャツは、ちょっとしたホコリや水気をぬぐうくらいの雑巾になる。
油ものに使ってない食器類は、洗剤を使わず、すぐに水洗いをする。
寝るときに暖房はいらない。湯たんぽが、あるじゃないか。

岩美町ー家庭ごみの収集日について

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頑張る、は他人軸。

ついつい、頑張らなきゃって思ったりする。我慢して、努力することがエライことだと、勘違いしたりする。

我慢して出来たことを手放せなくなる。

「あの人、頑張ってるねー。」って人が思うとき、その人が、頑張ってるかどうか。もちろん、頑張ってる人もいるんだけど、自覚がない場合もある。

「頑張ってなんか、ないよ。」

好きだから。
伝わるから。
ただ、なんとなく。

評価をもとに行動するってことが、そもそも他人軸。

どう見られているか、どう評価されているかというのは、いつだって、結果でしかない。

自分で、自分を見て、何を感じているか、無理してないか、そういう基準で考え始めている。

結果、どうなるのか。評価するのは、自分だ。

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サカナを食う

鳥取の人は、鳥取の自慢をあまりしない。だから、たまに、ここでぼくが自慢をしよう。鳥取はサカナがうまいのです。

ここは、鳥取市内にある「あぶりや食堂」というところで、シンプルにサカナがうまい。

こてこてしないで、サカナがそのままよくあるメニューそのもので出てくる。「塩焼き」とか「ハラミ」とか。サカナが新鮮だし、よく吟味されていて、手早く料理されているから、こてこてする必要がない。

風景を見たらわかるけど、殺風景な何もない小道です。わき道を入ったところ。一応バスも通りますけど。

鳥取には、いっぱいうまい店はあるなぁ。

東京で、料亭でもサカナを食べたことがあるけど、かないません。

夜はここで居酒屋もやっているみたいなので、今度夜も行ってみたいな。

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次のアクションまでの時間

次の「アクション」が「死」でなければ、それまでの時間、いろんなことができる。それこそが「可能性」だ。「死」以外の出来事が「可能性」のすべてだ。

お金があるとか、ないとか。あれができて、これができていないだとか。現象にとらわれて、それを理由に「可能性」から、逃げていないだろうか。

死んでいなければ、生きている。それだけ。

あと数時間で死ぬとわかっていたら、ぼくは何をするのだろう。

まず、優先順位を必死で考えるだろう。

優先順位も何もなければ、俯瞰するしかないだろうし。そういう状態でいるかどうか。

ただ見て、感じる。そうやって、生きている。

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なんとなく、なんとなく

今日は、道の駅「きなんせ岩美」でのアポン・サロンコンサートでした。

こういったオープンな場所での演奏は、常に新しい出会い、予期せぬ出会いが待っています。

目の前にいるのは、たいてい、いつも「たまたま」そこに来られた方です。

今日も楽しいライブでした。あーたのしかった!!

そんだけーーっ!!

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時間旅行

ぼくは、今日、こんな経験をした。

お昼ごはんを食べて、道の駅の駐車場にクルマを停め、エンジンを止めてやすんでいた。

おなかがいっぱいになると、だいたい、眠くなる。

その時も猛烈な睡魔に襲われて、運転席に座ったままで、目を閉じた。

ふと目が覚めると、1時16分だった。

ここから5分のところに、仕事先があって、1時半には着いておきたい。

「起きなきゃ。」と思いつつ、また眠ってしまった。

ふたたび、目覚めると12時56分だった。

まだ少し時間があった。そして、1時16分には目が覚める確信があったので、安心して目を閉じた。

そして、三度(みたび)目覚めたときに時計を見ると、1時16分だった。

もちろん、仕事先には時間までに余裕で着いた。

その時は、不思議には感じなかったことが、今となっては、不思議に思う。

この記事をnoteにも投稿してみた。

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わくわくに沿って生きる

ひとことで「わくわくする。」って言っても、人によって、「わくわく」は、ちがうんだろうなぁと、思う。

ジェットコースターに乗ることを想像しただけで、「わくわく」する人もいれば、「ぞっ・・・」とする人もいるわけで。

20代の頃は250ccのバイクに乗ってたし、今は、クルマに乗って運転するのは、ぼくにとっての「わくわく」ですね。

もちろん、音楽を通して、「わくわく」を楽しんでいます。

物欲全開だった頃は、ネットサーフィンしながらのショッピング、家電ショップの実店舗を見て回ったりするのは、めっちゃ楽しかったけど、今は欲しいものがあまりなくて、その時間は減りました。

あれほど入り浸っていた本屋にも行かないしねー。キンドルで読みたい本を読みたいときに、読んでしまうんだわ。

掃除したり、片付けたりするのが今は「わくわく」になっています。

がんばって、無理して、なにかするっていうのは、もういいかなって思ってる。

努力を否定するわけじゃない。

こうして、パソコンでブログを書くのも、人から見たら、努力に見えるのかも知れないし。

ただ、努力しているという感覚では、ないですね。

もう、これからは、わくわくに沿って生きるだけをやっていこうと思います。

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すだちとビール

鳥取で暮らしていると、季節の野菜とか、果実とか、たまに、松葉ガニとか、いろいろとおすそ分けをいただきます。消費税10%とか、関係ないですね。物々交換の世界。

近ごろブームなのが、クリとすだち。

すだちは、焼き魚や料理にも、もちろん合うんだけど、ビールにも、ばっちり合いますね。

すだちを包丁で半分に切って、その半分をグラスに絞ったところにビールを注ぐわけです。

油断すると、飲みすぎます。うまいです。

今回の台風は、大きすぎます。いやな予感しかしません。

もし、可能な方は、ここ数日ぜひ、鳥取にいらしてください。

瓦は飛びます。今からとめる必要はないです。今の家は雨戸もないんだもの。どうしようもないですね。逃げましょう。

すだちとビール、うまい。寝ます。

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CLに愛を込めて

コンタクトレンズ(CL)って、パラダイス〜♪ですね。

長い間、メガネ生活を続けてきて、コンタクトレンズに出会った人は、そう思う人が多いと思う。

美術館に行って、数歩下がって絵画を見たときに、メガネのフレームに邪魔されずに視線を動かさないで、絵全体が鑑賞できることの喜び!

CLとの出会い

ぼくは、中学1年のときに強い乱視が出始めた。まず、夜見る月が2つ見えた。あれ?ってな感じ。それから、普段でも片目ずつ見ないと気持ち悪くて、酔いそうになるくらいな感じになってきた。だから、視力は悪くないんだけど、席替えのときにいつも教室の一番前に座ることを許される一人だったりした。

それ以来のメガネ男子なので、50代でレンズを使用するまで、歪みのない、クリアな世界を知らなかったと言ってもいい。

ガリ勉メガネ

中学の当時、初めてかけたメガネは四角い黒縁でレンズが大きくて、当時「牛乳瓶の底」って言われていた分厚いレンズですよ。自分で言うけど、成績良かったんで「ガリ勉メガネ」って思われていたかもですね。真実は勉強ほとんどしなかったですけどね(暗に勉強しなくても出来ていたという嫌味な自慢)。

昨今のメガネは、フレームもレンズも技術の進歩もあるんでしょう。薄型でファッショナブルなものが主流で、度のきついメガネかどうかは見た目ではわかりません。

メガネで不自由だとは思っていなかったんだけど、ある日、メガネのフレームが修復不能なまでに壊れてしまって、ぜんぶ作り直すより早く、約半額の費用でできるコンタクトレンズを一時的に使うつもりで作った。それが約3年前。

ぼんやりした、裸眼のひととき

その後、クルマを運転するときにメガネが必要になるときもあるかも知れず、メガネも直したんですが、実は、ほとんど家ではメガネをかけない。夜、風呂に入る前にコンタクトレンズを外してからは、ずっと寝るまで裸眼で過ごします。

20センチより遠い視界は、モザイク以上にぼやけます。カタチが滲んで見える。それくらいの視力しかありません。

でも、またこの「ぼんやり」がいいんだ。ぼかそうったって、ぼかせないものが、もともとぼやけて見えるんだから。

自分の手のひらのシワや、覗き込んだ顔は、よく見える。パソコンの画面も20センチまで顔を近づければ見える。

現実には、見えるかどうかは、あまり重要じゃなかったりする。

新聞や本などの活字を見ようとすると、メガネをつけたり外したりが忙しくなります。それなら、最初から見ないか、20センチの距離で読むしかありません。

逆に全体がぼんやり見えるほうがよく見える、というような不思議なことも起こります。単純に見えるから、見えるではないのですね。不思議です。