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心も便秘になる

ぼくは、あまり便秘になったことがない。
たまにお腹をこわすくらいで、快適に出る。これは、お通じの話。
カラダ的には、新陳代謝が、まあ順調ってことなんだろうな。
循環がうまくいっているから、便秘になることがない。

ここからは、心の話

最近、心も便秘になるんだってことに気がついた。

っていうか、ずっと便秘だったんだ。ぼくの心は。
溜め込んで溜め込んで異臭を放っていたわけだ。
ちょっと想像すると、ごめんなさい、だね。

うんこの正体

雑念や、的はずれな思い込み、妄想や、「こうしよう、ああしよう、こうだったらいいのに。」みたいな、今の状況が見えていない思考。
そういうの、誰だってあるんだと思う。
それこそうんこみたいなもんだから。知らず知らずに溜まっていく。

そういうのを、ぼくはこれまで隠していたし、あまり出してなかったんだと思う。

ぼくが悪いとか、できないとか、間違っているとか、そういうどうでもいい言い訳やジャッジメントをくっつけて、どんどん溜め込んでいってた。

溜め込んだままで、なんとかしようとするから、どうにもならないわけ。

知識は増えて、対処方法なんかは、どんどんうまくなるんだけど、やっぱり溜め込んでいく。

そうやって、うんこを溜める以上に、がんばってキャパを広げていく生き方も、もちろんあるんだと思う。むしろ、ぼくは、これまでは、そうしないと生きていけないって思い込んでいた。

シンプルになること

もう、いいよね。ぼくはシンプルになりたい。
すっきりしたい。
いらないものをすべて捨てる。
いらないことは考えない。

やりたいことだけをやろうと思う。

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「よいしょ」を言わないことにする

「よいっしょ。」「どっこいしょ。」

ついつい、言ってしまいます。

意味を調べると、重いものを持ち上げるときに発する声、とかって、出てます。そうじゃないとき、重いものも持ってないようなときに、ちょっと腰を浮かしたりとか、そういうときにも、ぽろっと言ってます。

本当に重いものを持ち上げるときには、たぶん言ったほうが力が入りそうなので、やはり言うとは思います。でも、ふだんの何気ない動作のときにも言ってしまうと、それが癖になってしまいます。ってか、完全に癖になってしまってましたね。

無意識に、自分に気合を入れているわけですね。

「よっしゃ。」とか。「うりゃあ。」とかも、そう。

次に何をするとか、自分の今感じていること常に意識することで、落ち着いて行動ができるように思います。そうしたら、自然にこういう言葉を言わないような気がします。

たとえば、座っていて次に「立ちあがる」ことに意識を向けていれば、ただ何も言わずに立ち上がれます。

立ち上がったあとの別のことに意識を向けていて、立ち上がることに意識を向けていないときに、この言葉が出てくるような気がします。

何気ない言葉の中に、自分のことを発見するきっかけがあるんですね。自分の意識を今よりもっと見ようと思います。

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忖度なんかするもんじゃない。

「忖度」なんて、前は読めなかっただろうし、この熟語、知らなかったよ。

2017年の森友・加計ですよね。この言葉が出てきたの。2年前。もう、そんなに言わないですけど。何も解決してないんで、そっちも気にはなりますけど、森友・加計は置いといて・・・。

ぼくは、言葉は知らなくても、これまでいろんな場面で忖度してたなと思う。「慮(おもんばか)る」とか、「思いやり」とか。あまり違いはわかってなくて、そうするもんだと思ってた。それが処世術だろうって。

はっきり言って「逃げ」ですね。こうすれば、差し障りないだろう。そういう選択です。究極の自己中ですね。まったく客観視はしないで、差し障りのない言葉を並べて、様子を伺うわけです。スネ夫的って言ったらわかりやすいかな。見た目は出来杉くんなんですけど。

そこを見抜かれると信用を失うわけですけど、すぐに取り繕うので、騙される人はいるわけです。

いちばん問題なのは「勝手に」相手がこうだろう。と先回りして考えることにある。「気を使う」場面ではないのに、変に気を使う。かなり歪曲して解釈をして。必要以上に「人が怖い。人がぼくを見る目が怖い。」が前提としてあった。

そういう先回り思考やってたなぁって、今気づいている人間です。58歳なんですけど。気づくのって歳関係ないみたいです。いや、かなり遅いとは思うんだけど。

ぼくは小さい頃、吃音でいじめられっ子で、一方でクラス1の秀才でした。常に周りに気を使って、逃げていた。見事にそのパターンにはまってしまっていたわけです。吃音は中学に入って、徐々に出なくなりました。見た目は出来杉くんなので、そのまま人に認められてしまった。

こう書くと、本当の秀才には失礼ですね。ある意味、馬鹿でした。ただずる賢かっただけ。

今の自分を貶めたくて卑下したくて、この文章を書いているわけではないんです。あー、もうちょっと早く気づきたかったなという気分はあります。

今、やっているのは、こうかな、こう思われているのかなという思考を徹底的に手放すということ。自分を自我で見るんじゃなくて、外から見ること。人と同じ空間で自分を見ること。

必要のない不安を持たないこと。

同じように悩んでいる人、いるんじゃないかな。これから、ぼくがいろいろアウトプットすることで、これを読んで気づく人が増えたらいいなと思う。平和よりも調和がいい。そう思う。

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できることは限られている

一人ひとり、できることは限られている。そういうと、夢の無いことを言うと思われるかも知れない。夢を持ち、夢に向かって頑張れば、努力すれば、なんだってできる。そう思いたいのが人間だ。

夢をあきらめないで、実現したヒーロー、シンデレラストーリーに皆が憧れる。

しかし、これまでにまったく違う自分を実現した人は一人もいない。自分に何ができるのかを認識して、それを生かした人だけが、ヒーロー、シンデレラになれる。

この法則に例外はない。

自分をみつめよう。そして、自分に問いかけよう。本当にやりたいことをやっているのかどうか。心が喜んでいるのかどうか。

人の目を気にする必要はない。自分がやりたいと思えばいいし、心が喜べばいい。

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日課のマッチョ運動

5月末に持病ともいえる腰痛を発症して、それでも6月中旬に石巻に行くことになっていたので、必死に治療した。3回整形外科にも通った。石巻には無事行くことができたが、7月に入るまで、ずっと、腰痛ベルトと痛み止めの薬が必要だった。

動こうにも動けなくて、ほとんどの時間を寝て、必要最小限、起きてまた寝るという日々を1か月半くらい過ごした。

ようやく腰痛が収まったかと思えたころ、右足の痛みが続いた。ずきずきした痛みに夜目が覚める日もあったが、歩くのにはまったく支障はなく、これは、腰痛の痛みを脳が忘れない影のようなものだと思った。

これは動かないと治らない。

そう思い、7月中旬からランニングとウォーキングを始めた。

忙しくて、動けない日はあるが、週5日歩ければそれでよしとした。

7月下旬からは、寝る前に腹筋、腕立てを50回することにして、もう10日ほど過ぎた。たぶん続けられるだろう。回数を無理に増やす必要はない。続けることを目標にする。

5月から比べると3キロぐらいやせたようだ。体重も気にはしていないが。

一番は、気持ちが軽くなったのが大きい。ランニングもウォーキングも、いろいろなことも楽しい。

海外のマラソンに行ってみたい。65歳くらいまでに実現できるといいかな。

10月27日の鳥取砂丘らっきょう花マラソンの一般3キロに申し込んだ。

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走ること、歩くこと

最近、走ってます。ランニングとウォーキングが日課です。

着替えを準備して、ストレッチや簡単な筋トレをします。決まったコースを走ることもあるし、適当に歩いたりすることもあります。

スマホのアプリがしっかり記録をしてくれるので、どれくらい走ったかを確認することができます。タイムやスピードは、今はそんなに気にしていません。気にするレベルでは、ないので。

ランニングは、瞑想の代わりにはなりませんが、瞑想と同じような効果があります。余計な思考やこびりついた殻を剥ぎ取ってくれています。

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打吹回廊という風景

2019年7月20日(土)、西日本では、九州を中心に台風の影響で、大雨が降っている地方もあった。

鳥取も数日前から影響は出ていて、長い時間雨が降っていることもあった。水曜日、木曜日あたりから、もしかしたら、20日のオープニングイベント自体の開催も危ぶまれている状況だった。

それでも無事オープニングイベントが開催できたのは、とても喜ばしいことだ。

「打吹回廊」というのは、鳥取県倉吉市の中心地にある、倉吉銀座商店街に新しくできた賑わい施設だ。以前ナショナル会館という建物?があった場所らしい。市役所や観光名所である、白壁土蔵群からも近い。
倉吉銀座商店街のFacebookページ

1980年代に当時倉吉から関金を結んでいたJR倉吉線が廃止になり、少子高齢化社会を迎えて、シャッターを下ろす店も多くなってきた。これは、全国的に地方の中心市街地に見られる光景だ。

それでも、この地域には、白壁土蔵群があり、近くには、倉吉パーススクエアもある。ここには、1500席の大ホール等を有する倉吉未来中心が建ち、数年後には、県立美術館ができる予定だ。
ウェブ版美術館準備室(鳥取県教育委員会)のページ

そういう意味では新たに活性化しつつある元気な地域と言っていいだろう。

人口が減り、商店が店を閉めるのは、寂しいことだし、かつての賑わいを懐かしく思うこともあるだろう。しかし、寂しい、残念だと思うことだけでは、何も生まれない。

今必要なのは何なのか、考えて作られた、新しいものが生まれたことを素直に喜びたい。

オープニングステージで演奏

この打吹回廊のオープニングイベントで、アポンとして、参加、ステージに華を添えました。

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波動について考える

以前トップページに書いた記事を転載しました。ここに書いてあることは、ぼくの思考であり、証明されたものではありません。

波動には、物理的な制約はありません。離れていても人の波動を感じることがあります。それはその人がラジオの周波数が合うように、自分の周波数とシンクロするときに起こります。

そういう種や遺伝子を受け継いだ親子だったり、双子だったり、非常に波動の合う恋人同士だったり、たまにそういう人同士が、離れていてもお互いの変化をキャッチできることがあるのは、偶然ではなく、そういった作用によるものです。

料理がおいしいのは、使われる材料が、新鮮で吟味されたものであるという事はもちろんですが、その料理をするシェフの腕によるものが大きいでしょう。

人にとって知識や記憶というものは、食品カゴや冷蔵庫に入っている材料でしかありません。

その知識や記憶が豊富で、新鮮で、吟味された確かなものであるという事はもちろん大切ですが、それ以上に品性や知性が重要なのだと思います。

その品性や知性こそが、その人が持っている波動です。

波動というのは、脳幹や、松果体から発せられる、ごくわずかな振動です。

波動は、非常に小さな振動なのですが、情報量は、DNAをはるかに超える宇宙規模のものです。

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2019夏日記

子どものころ、毎年のように夏休みに日記を書く宿題が出ていた。まともに書けたためしはなく、始業式の数日前にあわてて書いていた。今の子どもはどうだろう。あの頃は、毎日が、ただじりじりと暑くて、今思えばたいした困りごとらしい出来事はなくて、本当にパステルカラーの毎日を描いていたころだった。

あの頃を思い出すと、現代の自分が持っている時計の針の動きは、目まぐるしいと感じる。

ただぼうっとできていないと思う分、実はぼうっとしていても、常に何かやっていることにして、時間を、自分の意識をごまかしているのだと思う。

思っているほど、時間の速度は変わってはいない。すべて自分の意識が作り出している、錯覚なのだ。

この夏、2019夏日記として、日々の思いを残してみようと思う。

2019.7.18.Thu

台風が発生して日本海に近づいているニュースを聞いた。イベントのある週末の天気が気になる。

京都で痛ましい放火事件が起きた。ここにその詳細は記さない。ただとても悲惨な事件だ。

自分自身を振り返るというか、自分の意識を感じることがある。そこに感情が伴うとき、それはなぜなんだろうと思う。意識の奥底に何かしら動くものが感情になる。逃げているのか、固まっているのか。逃げているとしたら、何から逃げているのか。しっかり自分自身の意識を見定める必要がある。

最近は、晴れたら、布勢とかの走れる場所に行ける時間、着替える時間があれば、走りに行く。そうでなければ、できるだけウォーキングはしようと思う。死ぬまでには一度はマラソンを走ってみたい。どうせなら、海外の大きなマラソン大会がいい。まだ2キロを走るのがやっとだ。

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なりきり野村萬斎

昨日腰をぎくっ、とやりまして。

年に1回か2回はやるのでほぼ持病なんですが。

今回は、すぐに医者に行けたので、レントゲンでも骨には異常はありませんでした。ほっ。

いつもなら仙骨(せんこつ)が左にずれちゃったりしてることが多くて、そらぁ、とっても痛いんですが、今回は、まあ、多少は動けるカンジ。

診察で、かかりつけの医者に「どうしましたか?」と聞かれて、「トイレで」って言った瞬間に「うんこしてた?」って、間髪入れずに(笑)。はい。ウォッシュレットで良かったです。

その先生曰く、この日、そういう人がめっちゃ多かったようです。「今日、そういう人が多いんです。今日です。」って不思議そうに言ってました。へぇー、そうなんだー。

朝、起きたら、ゆーっくり、指導されたとおりの腰のストレッチをして、ゆーぅっくり、そろーり、そろーりと、着替えをして、湿布を貼って、腰サポーターを巻いて、腕の力で起きたり、座ったりをしています。

歩くときもすり足で、いっぽいっぽ。

「そろーり、そぉろぉーり。」

声に出したら、笑えた。

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