カテゴリー
essay

忘れるという善でも悪でもないこと

顔や首のツブツブ・ポツポツをケアして【なめらかつるつる肌】に! 南仏産杏仁オイル

年配の方から「最近物忘れがひどくって。」ということばを聞くことが多い。

そんなときぼくは、

「前からですよ。」

そんなことは言わない。そんなミもフタもない。

「忘れるから、新しいことが覚えられるんですよ。どんどん忘れましょう。」

これは、たまに言うかな。

忘れる、ということは善悪で言うと、悪であるという意識が人にはある。ぼくの中にもまったくないわけではない。

ちゃんと覚えていないと、学校で点が取れなかった。そういうことは、しっかり覚えているんですね。

さっき書いた「忘れるから覚えられる」ということは、本当だと思う。忘れるということは、頭の中で、情報をいったんどこかに置いておくということ。必要なときに、どこに置いたかがわかれば情報はすぐに取り出せる。その状態に過ぎない。

だから、忘れるということは、頭の中を整理するためには、必要なことだと思う。

なんでもよく知っている頭のいい人というのは、こうした情報の整理ができていて、スピーディにできる人なんだと思う。

◆スポンサードリンク


情報の整理をするときに、関連付けをして覚えることがある。

昨日あるクラスに新しく入った男性の名前を「体操のお兄さん」で覚えた。名前が体操のお兄さんと同じだったからだ。でも、今ふと、その名前、ファーストネームでは呼ばないだろうなと気がついた。たいがい姓にさんをつけて呼ぶだろう。

肝心な、その姓の方は忘れてしまった。まあ、いいや。また別の方法で覚えよう。

人の名前って、こんな風に関連付けで覚えていることが多い。

あの有名人と1字だけ違う人みたいな。

人の名前を思い出せないときに罪悪感を感じるのは、その関連付けを忘れているときだ。

「どっかで会ったはず。」とか、「なんか知ってる。」とか。

とくに「たしか小学校のときの保健の先生だったはず。」とか、お世話になったというイメージがあると、名前を思い出せないのはもどかしく思う。

まあ、いいと思います。

忘れることは、あります。

また、新しく覚えましょう。
音で起きるのとは異次元の快適な目覚めを促す光目覚まし時計inti(インティ)

カテゴリー
essay music

楽譜ってなんだろう

楽譜ってなんだろう。

◆スポンサードリンク



先日ステキなジャズ・ピアノの演奏を聞きました。

そのピアニストの名前は、中島徹(なかじまとおる)さんという方なんですが、今ネットで検索したらピアノだけでなく、トロンボーンもされるんですね。

聞いたのは、ピアノです。ボーカルとベースという編成で。

ステキでした。

そのライブについては、また書こう書こうと思いながら、どんどん月日が経ってしまいそうな予感が徐々に的中しつつあります。

ライブそのものもボーカルも、ベースもステキでした。

そのピアニスト、中島徹さんが、著作の本を持ってきたんですね。

ピアノソロ 「プロフェッショナル・ジャズ・ピアノ」 中島 徹 【CD付】


この「プロフェッショナル・ジャズピアノ」という本でした。ライブの中で、ご本人が言われたのは、「これは楽譜にCDがおまけとして付いているのではなくて、CDがメインなんです。そのCDのライナー・ノーツが、たまたま楽譜付きの本になったものなんです。」という説明をしてくださいました。

よくわかる話だなぁと思いました。

「楽譜は、そのCDのピアノ演奏を聞いた出版社の方が、耳コピをして、あとで書き起こしたもので、私がその楽譜を見て、自分で演奏しようとしたらできなかった。」とも言われました。

できないハズはないので、多少誇張して言っているのだと思いますが、これもよくわかります。楽譜って特にジャズのアドリブを書くと、やたらむずかしくなります。楽譜を見た感じも、それを見て演奏しようとすることも。

だからこそ「ジャズって難しい」と言われたりするのは、そういうところにも表れているような気がします。

聞いていてシンプルで心地いい音楽が難しいハズはないし、それが「楽譜」というフィルターを通してみると、とたんに難しく感じられるものになる。

たとえば、耳で聞いて「ドレミファソラシド」って聞こえたとしても、楽譜にするとやたらシャープやフラットがついちゃったりするわけです。

楽譜って、記号のカタマリなんです。地図みたいなもの。

実際街を歩いたら、風も吹くし、青空が見えたりするわけです。ひょっとしたら寒い寒い嵐の夜かも知れないけど。

楽譜って、そういった感覚的なものを一切省いて、誰が演奏しても同じようにできるように、リズムや音の高さを記号で表したものなんです。

だから必要なのは、まず「音」なんだろうなあと思います。そして、それをどう感じているのか。心地いいのか、楽しいのか。

いつもそこから音楽が始まるといいのになあと思います。

◆スポンサードリンク


カテゴリー
essay

人間の本質は、区別?

春の限定商品【ヨックモック】

人間の本質は、区別をつけるということではないだろうかと考えます。動物にもありますが、動物の場合は、ニオイだったり、仕草だったり、生きる本能から生まれる区別です。

人間は、あらゆるものに対して、意識的に区別をします。

善か悪か、得か損か、ひとつひとつの価値判断をするということだと思います。

そうやって判断をしても、判断が分かれることがあります。環境や習慣によって違いが出てくるからです。ですから、法律や決まりを作って、区別しようとします。

法律の及ばない個人的な事柄になると、見た目に影響を受けて、価値判断が左右されます。めっちゃぶれまくります。人間の価値判断って結構アバウトです。

自然にはもともと善も悪もありません。自然は常に循環です。人間はこの自然の循環から逃れて、人間を確立させようとする、そんな存在です。

ですから、人間は「自然を利用する。」という言い方を平気でしちゃいます。「自然の恵み」とも言うけれども、それは上辺だけ。「自然を利用しているんだ。」というのが人間の考え方の基本です。

しかし、誰もが死を迎え、自然に還ります。大きな循環の中に戻るということです。

ああ、ええと。なんだか、ここに書いたことは、宗教的な哲学的な内容になっているのかもしれませんが、ぼくが考えるのは、区別するということは、自然との対極の考え方なんだなと思ったということです。

人間も他の生命と同じように、自然の大きな循環の中にいる存在です。善も悪もない、特も損もない。ぼくの体の中を流れる循環を感じながら、ふと考えたことです。

◆スポンサードリンク


無料のシングルサインオン SKUID

カテゴリー
essay

脱いだTシャツ、昨日のハンカチ

昨日着ていたTシャツとか、使っていたハンカチって、当然洗濯カゴ行きになると思うんですけど、それを洗う前に、あちこち拭き取る用に使うんです。

雑巾代わりですね。

床とトイレ以外、身の回り「何でも拭く用の雑巾」は別に1枚あります。

その「何でも拭く用の雑巾」は、使ったらすぐ水洗いします。

◆スポンサードリンク



コップが結露して滴のあとがコースターやテーブルに残ったのを拭き取ったりとか、パソコンのディスプレイとかキーボードを拭くのには、洗う前のTシャツや昨日使ったハンカチで拭くわけです。

そうやって使っていたら、ホコリや水滴のあとなどはきれいになるし、ティッシュや乾いたきれいな雑巾を使わなくていいんです。

脱いだTシャツも、昨日使ったハンカチも、いつもだいたい身近にあるわけです。

ああ、もちろん、Tシャツで台所のシンクを拭いたりとか、ソースのこぼしたのを拭いたりはしませんよ。

そういうあとでシミになったり、油ものだったりするもの以外は何でも拭けるから、便利で使ってるってだけのことです。

このワタシ、エライデショ。環境のこと、カンガエてるでしょ的な意味で書いているわけではないけれど、でもちょっとは誰かのヒントになるといいなぁとは思いながら、書きました。

あと、タオルなんかも、バッグの隅で昨日使ってたタオルが詰め物的にクッション代わりに入ってたりします。もちろん、これをやると入れっぱなしになっちゃう性格の人は真似しない方がいいですね。

家に帰ったら、一度、バッグの中身を出して点検する習慣のある人は、いつも洗いたてのタオルを1枚バッグに入れておくといいですね。そのタオルが次の日、それほど汚れていなければ、クッション代わりになるかも知れません。

何か、参考になればと思います。

顔や首のツブツブ・ポツポツをケアして【なめらかつるつる肌】に! 南仏産杏仁オイル

カテゴリー
essay pc

わたしバージョン2018

パソコンには、更新があります。

なんでそんなに頻繁に更新して、バージョンアップするんだろうと思います。機械だからでしょうか。インターネットにつなぐからでしょうか。バグ(小さなミス)があるからでしょうか。

パソコンには「バックグラウンドプロセス」といって、何もしていなくても電源が入っていれば、バックグラウンドで動いているプロセス(プログラムの動作)があります。

ニンゲンの体が新陳代謝を繰り返しているように、目に見える更新だけではなくて、目に見えない更新をしているのです。

ニンゲンも更新をして、常にバージョンアップしているわけです。そして、パソコンもニンゲンも、実はバックグラウンドプロセス(新陳代謝)の方がとても大切だったりします。

ただ電源を入れておけばいいんです。

パソコンは使わないときでも、時々電源を入れると調子いいのはそういうことなんです。

◆スポンサードリンク



ニンゲンには電源はありませんね。心も新陳代謝しています。無理やり詰め込む必要はないのです。バランスが大切です。ニンゲンは年齢とともにただ衰えると考えがちですが、それぞれの年齢のバランスで生きているのです。

バランスを整えて、生きるのです。

なんとなく、4月1日なので、新しいバージョンのわたしです。

オホーツクの海の幸を全国の食卓へ

カテゴリー
essay

呼吸が大事

心臓の役割は、体じゅうに必要な血液を隅々まで届け、生命体を維持するための「循環ポンプ」です。

脳の役割は、集中制御盤、いわゆる「司令塔」です。これも同じく生命維持に関わる機能です。

人は、呼吸することによって生きています。このことを否定する人はいないでしょう。

でも、人は、呼吸は二の次だろうと考えています。

こういう順番です。心臓が止まる。脳の機能が停止する。結果、呼吸が止まる。これが人の死だと受け止められています。

おおよそこれが、重要な順番だと決めつけているのです。

私は、考え方の根本が違います。

◆スポンサードリンク



私は「人は、無意識下の深層で、存在するすべての生命とつながっている。」と考えます。もちろん、このことを今の科学で証明する方法はないでしょう。

私は、そこに「氣」があると考えます。すべての生命が「氣」でつながり、宇宙の中で「氣」が循環しているのだと考えています。

ユングは「集合的無意識」と言っていたそうです。私の考えがユングと同じかどうかはわかりません。ただ、一般的に人々の考えでは、人は一人ひとりでまったく独立した生命体だと考えていると思います。遺伝子や設計書となるDNAによって、生命のカタチが作られるのだと考えています。でも、本当にそうでしょうか。

私は「氣」を通じて、私自身が宇宙を感じているように思います。そして、呼吸を通じて「氣」が循環しているように感じています。

腰痛でお悩みの方へ。姿勢の良くなるチェアー アーユルチェアー

カテゴリー
essay music

呼吸と「氣」を考える

昨年、2017年の秋ごろから「呼吸」ということをよく考えるようになった。

私が受け持つ県内15グループくらいあるオカリーナのグループを見ていて、それぞれに特徴があって響きが違う。個々の響きとともにグループ特有の響きもある。これはなんだろうかと考えたのがきっかけだった。

そうして見ていると、響きがあまり感じられないグループでは、一人ひとりの「呼吸が浅い」ということに気がついた。

◆スポンサードリンク


「呼吸が浅い」グループは、ぼくが話をしていると、穏やかな表情でじいっと聞いている。そういう意味ではおしゃべりが少ない上に熱心なのだが、最初のひと声、一音がなかなか出ない。だんだん調子は良くなるが、時間とともにまた呼吸が浅くなる。

そして、この呼吸というのは、グループ内で無意識に同調する。そのグループの「平均的な呼吸」に一人ひとりが近づいてくる。その結果、そのグループ特有の「雰囲気」が出来上がる。

呼吸というのは、心臓や脳とともに生命活動の中心にある。呼吸は、自発呼吸とともに、ある程度は自分でコントロールもできる。心臓の速さを変えることはできないが、呼吸の深さや回数は変えられる。

人は睡眠時、全身をゆるめてからだを横にした状態では、血液中の酸素濃度に応じて横隔膜が伸縮することで自発呼吸をしている。無意識に浅い腹式呼吸をしている状態になる。寝ている人を横から見ると誰もがおなかがふくらんだり、しぼんだりする様子を見ることができる。

呼吸は姿勢によっても変わる。目が覚めて、起き上がると、からだが運動を始めるとともに、胸膜をふくらませたりしぼめたりして、肋骨を動かして呼吸する。運動量に応じてじゅうぶんな呼吸を必要とするためで、この状態を胸式呼吸と呼んでいるが、極端に肩が上がり下がりするほどではない。

呼吸が浅い人は、このとき、あまり横隔膜が動かない。

オカリーナは椅子に座って演奏することも多いが、姿勢と呼吸についてはまた別の機会に書こうと思う。

私はこの半年、ふだんは鼻で呼吸をすること、ゆっくり深い呼吸を意識すること、息を吸う時はおへそのしたあたりを意識して、全身に「氣」が行き渡ることをイメージすること、などを考えるようになった。

オカリーナのグループの中でも、こんな指導をしている。

「家でお風呂に入るとき、体をお湯につかって、両手で胸とおへその下あたりに手のひらを当てて、鼻から湯気を吸うように5つくらい数えてゆっくり息を吸って、10から20くらい数えながらゆっくり息を吐く。息を吐くときは鼻でも口でもどちらでもかまわない。これを5〜6回繰り返すと、体がより温まります。自然な深い腹式呼吸が身につくと思います。」

もちろん、自分でも実践をしていることだ。お風呂は全身の力がゆるんでいるし、水圧があるので、深い腹式呼吸がやりやすい。

そして、最近は、オカリーナ教室だけじゃなくて、多くの日本人の呼吸がだんだん浅くなっているんじゃないかと思い始めている。もともと日本人は「氣」を生活に取り入れて暮らしていたんじゃないか。そのため、体格が小さく、質素な食生活でも生きてきたんじゃないだろうか。

飛躍しすぎだろうと言われるかもしれない。呼吸と「氣」のことについては、もう少し考えてみたいと思っているところです。

【第3類医薬品】ファーストマイティアCL-G 9mL

新品価格
¥504から
(2018/2/7 15:52時点)

過去の投稿
呼吸について
忙しいを肯定しない
意識、無意識の世界

カテゴリー
essay

あと100年、生きる。

「You。・・・何言ってんの??」と言われると思う。

ぼくは今、57歳・・・。だから、157歳まで生きると宣言しているようなものだ。

そこまで生きられるとは、もちろん、思っては、ない。

物質としての肉体の寿命には限界があると思う。

統計やデータを無視したからって、それだけ生きられるわけじゃないし。
◆スポンサードリンク



ふと思ったんだ。

男に生まれたから、いろんな場面で男の意識でいるわけだ。男らしく、20代らしく、30代らしく、子どもらしく大人らしく親らしく・・・「らしく」って言葉をいろんな場面で無意識に植え付けて、自分に言い聞かせたりして、これまで年齢を重ねてきた。

で、多くの人は、老人になると「老人らしく」振る舞おうとする。アンチエイジングって言うのも、実はそうよ。「私は老人じゃない。」って主張する。それも「らしく」の一種だと思う。ぼくの昔の記憶をたどれば、50代はじゅうぶんに老人だった。

肉体は、そのままを認める。それはそれでいい。ぼくも白髪だし、禿げてるし。体力ないし、記憶力も低下する。

肉体は、肉体の年齢をそのまま重ねよう。

限界がくれば、死を迎える。事故とか、病気もあるし、明日死ぬかも知れない。

ぼくがあと100年生きると言っているのは、魂のこと。

言うだけなら、200年でも、千年でもいいんだけど、イメージしやすいから100年と言っているだけ。魂の年齢と自分自身の成長をしっかり見届けて生きたいと思ってる。たぶん、また来年も生きていれば「あと100年生きる。」って言っていると思う。

ぼくが若い頃は、誰もが魂も肉体も成長するものだと思っていた。

しかし、どうやらそうじゃないらしい。

物質はどうしても劣化するから、寿命や使用期限があるのはしょうがない。

物質ではない魂には、それは通用しないハズなのに、誰もが、年齢に合わせて意識を変えようとしているのはなぜだろう。

社会が「振る舞い」を求めているから、合わせているだけなんだろう。それを知って意識して合わせるのならそれもありなんだろうけど、どうもそうじゃないんじゃないか。

流されてはないか。

とりあえず、あと100年生きる。そういう意識で、今この瞬間を生きる。

Canon デジタル一眼レフカメラ EOS Kiss X8i レンズキット EF-S18-55mm F3.5-5.6 IS STM 付属 KISSX8I-1855ISSTMLK

新品価格
¥63,507から
(2018/1/9 23:36時点)

カテゴリー
essay

ここにある、既にできている

 以下の文章は、ひとりごと、つぶやきです。

 人生において、何が100%なのかというと、ここにある「すべて」が100%なのであって、そこを知ること、見つめることが、まず自分の「軸」になる。

 ところが「出来ていない」「足りない」自分を見ようとする。それでは、ここにある100%を見ていないことになる。

◆スポンサードリンク


 自分のダメな部分を知ること、見つめることを、避けようとする。見たくない。そして、関係ない他人に対しては、簡単に「ダメ」って言う。

 自分でも、人でも、ダメなものはダメでいい。それは、出来ていない、足りないのではなく、ただダメなだけ。

 ダメでいい・・・っていうか、ダメを見ないで、ごまかすんじゃなくて、ダメなところはダメとして見ることが大事なんだろうな。

 うん、そうだな・・・。

 ダメを見ないで、ごまかすことを「努力する」「ガンバル」って言ってた場面があったような気がする。

 今も、それがないだろうかと時々、思い出したように自問する。

 100%ここにすべてある。やろうとしなくていい。見つめればいい。既に100%できている。あとは、自然に出来るようになる。

 パソコン教室のエフセブンのページもよろしくお願いします。

自分を休ませる練習 しなやかに生きるためのマインドフルネス

新品価格
¥1,080から
(2017/12/16 19:54時点)

カテゴリー
essay

意識、無意識の世界

 前回、「意識、無意識は『氣』の循環によって形作られる。」と書きました(前回の投稿記事)。そのあたりをもう少し書いてみたいと思います。

◆スポンサードリンク


 人には五感(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)があります。五感で表せない感覚を「第六感」と言ったり、当岩美町出身の尾崎翠(おさきみどり)さんという作家の方は『第七官界彷徨』という作品の中で、さらに第七感〈第七官界〉があると記しています。

 一般には、こうした感覚を自覚することを「意識」といい、感覚のうち、自覚できない領域を「無意識」と呼ぶようです。

 ここで、もう一度「氣」について触れておきたいと思います。

 自然の中にいる動物は、「氣」に満ちています。身の回りにあるすべての世界を、呼吸を通じて、肌で、その瞬間瞬間に感じているからです。

 人間は「感覚」を「知覚(知識)」で補う存在です。「見ているようで、見ていない。」「聞いているようで、聞いていない。」匂いにも、味にも、触覚にも驚くほど鈍感です。こう書くと、その鈍感さに、誰しも「自覚」はあると思います。どの感覚もわざわざ「研ぎ澄ます」ことをしないと働かないのが人間です。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえ、感覚を研ぎ澄まそうとしている人もたくさんいます。しかし多くの人は「感覚」を、さらに多くの「知覚(知識)」で補おうとします。その結果、どういうことが起きるのか、想像できるでしょうか。「知識」「思考」を「意識」だと思い込むのです。そして、その「意識」を自分自身の「意思」だと誤解することがあるようです。事実、その「意識」にはその人にとっての「意味」がありません。

 「こんなときは、こうするものだ。」「有名な先生が言っていた。」「あの人は、こんな人だ。」意味ではなく「理由」を探してこんな言葉を投げつけられることがあります。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえることで、「知覚(知識)」が、正しく「知性」として働くのではないでしょうか。そして、行動に現れるのは「無意識」の領域です。「意識」が捉えられないと、「無意識」は正常に働きません。意識、無意識の世界のバランスが保てないために、現代の人々は多くのストレスを抱えているように思えます。

第七官界彷徨 (河出文庫)

新品価格
¥670から
(2017/10/9 22:18時点)