人間って、日常なんでもかんでも、「良い」「悪い」で多くのものごとを判断している。そうするもんだって思ってる。ぼくもそうだった。
そもそも良いか悪いかっていう、この「善悪」ってなんだろう。
小さな子どもの頃から、叱られたり、諭されたりしてきた。たまにほめられたりもして。そうやって繰り返し、叩き込まれてきた精神論だったりする。
これって、時代の違いもあるだろうし、集団や地域、大まかなところは法律として国が作っているものなんだなって、薄々わかってきた。
つまり社会や習慣が違うと、善悪も違ってくる。
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ふと考えた。自然に善悪はあるのだろうかと。
食べるために殺す。オス同士でケンカする。ただ生きるためであって、そこに善悪はない。
人間の場合は、殺したらイケナイ。ケンカもダメよ〜。ダメダメ。肉や魚は食べるけどね。
そこへ優劣なんかも加わって、出来のいい方がいい。一方で出来が悪いからダメとか。ラベルを貼って、結局社会が人を殺してる。
もともと善悪って、社会の中でより多くの人を活かすための生きる智慧だったんだと思う。そして、社会の中でも殺し合いをしないため、生かし合うために宗教や思想が生まれたんだと思う。
本当は殺そうが、ケンカしようが、その行為そのものは、善でも悪でもない。
それぞれが相手のことを尊重する目を持った、それぞれのセンスを活かして生きる。あとで、結果として良かったな悪かったなって思えばいい。結果が出る前にイイダワルイダって考えなくてもいいんじゃないの。
そうだな。最初にイイダワルイダを決めちゃった方が、相手のことも自分のことも深く考えなくて済むんだな。
「こうしなさい。」「ハイ!」
お兄ちゃんなんだから。男だから。見た目が怖いから。こんなことをする人だから。そうやってキメツケル。
人を見た目で判断してはイケマセンよ。(←これも常套句)
ただそれぞれが、そのままで生きればいい。
それでいいのだー。(←慣用句)
写真は現在の鳥取砂丘、休憩舎付近。時折雨がぽつりぽつり。でも保育園らしい集団が歩いてどっか行ったよー。
シンプル&タコ(ブログ記事)
情報処理技術者であり、音楽家・オカリーナ奏者岸本みゆうの「出張のできる」パソコン&音楽教室、パソコン教室のエフセブン
「ただそのままを活かして、生きること」への3件の返信
こんにちは。
「善悪」は難しいですね。そもそも自分の中できちんと線引き出来ていなかったりするから質が悪いです。
子どもたちが、カマキリとバッタを捕まえて虫かごに。カマキリは生きたものしか食べないからバッタはエサになる。
「バッタが食べられてしまうから可哀そうだよ」と言うと、「バッタを入れないとカマキリは死んでしまう」と子どもたち。
まさしくその通りなのですが、「可哀そう」と思うのは自分の身勝手な考えなのかと自問してしまいます。
こんな例えが世の中にはたくさんあって、自己中心的な自分の考え方にどう判断してよいのか悩んでしまいます。
ただ、書いておられる通り人間社会では「相手の事を尊重する」「相手の事を認める」って、とても大切なことだと思います。それが自然に出来る人でありたいと思いますね。
李さん、いつもありがとうございます。
線引き、しなくてもいいし、
判断、というのも(李さんが、という意味ではなく)決めつけになっていないだろうかと考えます。
自己中心的、という風に見ないで自分を見つめることも大事かなと考えています。
カマキリのエサとしてバッタを一緒に入れたんですね。ちゃんとそのことを認識しておられるお子さん、しっかりしてますね。そしてバッタが可哀想だなということを伝えることも自然なことなんじゃないでしょうか。
どっちもステキです。
こんにちは。
「線引き」も「判断」もしなくてもよいというのは、私にとっては画期的な考えに感じます。幼いころから「良いか悪いか、よく考えて行動しなさい」と教えられてきました。それはそれで大切なことだと思っていますが、そればかりではないと考えてよいという事は、気持ちが少し楽になるというか…曖昧なところもありかと思えてきます。
どちらか一方が正しいと考えないことは、自分の気持ちに素直に生きる第一歩かもしれませんね。