「暮らし」タグアーカイブ

昔むかしのおっさんの話

◆スポンサードリンク


 「おっさん」というときに、「おっ」を低く、「さん」を高く言うと、「おじさん」「オヤジ」になります。逆に「おっ」を高く、「さん」を低く言うと、「おしょうさん」つまり、お寺の住持(じゅうじ)、いわゆる住職(じゅうしょく)になります。いや、この辺だけの呼び方かも知れません。あまり「おしょうさん」「住職さん」とは言わないで、「おっさん」と言います。もちろん、その言葉には敬意が込められていて、「おっさんはいつきなるだ。(住職さんはいつ来られるのですか。)」とか言います。

 岩美町には昔むかしのえらいおっさんというと、よく名前が出るのが、通幻禅師と、仙英禅師の二人がおられて、どちらも碑が建っています。上の写真は、通幻禅師のほうで、岩美町の浦富の住宅街の中にあります。座禅をしたおっさんの像の傍らに「母子愛碑」と彫られた碑も建っています。これは、この地方に伝わる「飴買い幽霊」のお話があって、墓の中で生まれたと伝えられているからです。もっとも、このおっさん、出家したのが大分のお寺だそうで、大分で生まれたという説もあるそうです。なにしろ約700年も前のこと、今となってはよくわかりません。

 一方、この写真は仙英禅師の碑が建っているところから日本海を写したものです。国道178号線からも登れるし、岩美駅からも近く、岩美中学校の裏手の丘の上になります。このおっさんも、通幻おっさんより、ずっと後の江戸幕末の人で、井伊直弼が安政の仮条約を結ぶきっかけを作った人らしく、この仙英おっさんがいなかったら、日本の歴史は今とずいぶん変わっていたかも知れないぐらいの人物のようでした。

 鳥取市の景福寺を開山したのが、通幻おっさんで、仙英おっさんも、この景福寺の住持をしているときに、井伊直弼にスカウトされるているらしい。二人のおっさんの共通点がここにもありました。

 現代も、いろいろと不安な情勢がありますが、こんな立派なおっさんがいたら心強いですね。

 でも、もし二人が現代に生きてたら、「こがいな碑ぃ建てんでもええけ、あんたらぁが一人ひとり、しっかりしないや。」って言うかも知れません。

◆スポンサードリンク


できないこと、無限大。

◆スポンサードリンク


 「可能性は無限大です。」というキャッチコピーを時々見かけませんか。「可能性はあるんだ。」ということを常に確かめたい。そう思いたい。それが人間の心理なのでしょう。ぼくもそうなのかなーって、思っていました。がんばったらできる。負けなければいい。できてる(ように見える)人を見て、あんなふうになりたい。根性だ。努力だと。

 もちろん、根性や努力を否定はしません。根性や努力が必要な場面もきっとあります。でも、その場面が日常だと疲れるでしょう。

 実際には、「できないこと、無限大。」なんだと思います。それは不公平でも、不平等でもなく、どんな人でも、できないことが無限にあって、それが現実です。確かに、できていることに差はあります。それが不公平、不平等に見える気はしますが、そう見えるだけなんだと、ぼくは思います。

 何をやるか、がんばるか。ではないんだということに、ようやく気づいた気がします。

 必要なのは、意味を知ること。自分を知ること、見つめることなのだろうと思います。疲れたら、休めばいい。できないことは、もともとたくさんあるのだから、気にしなくていい。何もしない、ゼロが常に基準にあって、それが見えているのなら、ゼロのままでもいいし、たった一つできることがあるのなら、それを無理にプラスにしなくていい。意味を知れば、結果的にプラスになるだけ。

◆スポンサードリンク


見える成長、見えない成長

[スポンサードリンク]


 人間のからだは、トシとともに成長し、衰える。その結果死ぬのか、途中で死ぬのか、病気になるのか、ならないのかは、それぞれなんだろうけども。

 からだの変化は簡単に数値化することができる。だから、測定して、ナントカ年齢というのが流行したりする。あっらー、平均より10歳も若いわーって喜んだりする。食事や運動で誤差を縮めることが流行る。少しでも若く、健康でいたい。もちろん、それはよくわかる。

 からだの変化、見た目は、見える成長だ。だから、実際よりもっと若く見せようとする。実際よりもっと健康的なボディに見せようとする。実際よりもっと美人に見せようとする。ハゲを隠し、シミ・シワを隠す。そのままでじゅうぶんキレイな人でも、努力を惜しまない。

 知識・知能も見える成長だ。知識・知能につながる一つ一つが見えるものとして評価される。肩書や、地位なども、人には意味のあるものに見える。実績、ふるまい、態度などにも時には畏怖を感じ、全部が優れた人などいないにも関わらず、上下を決めて、それに従う。

 心や意識はどうだろうか。本来、心や意識はことばや行動に表れる。が、数字にはなりにくいし、直接評価されにくい。心や意識が表れることばや行動そのものも、見る人にその心や意識がないと見えにくい。目を見つめ、会話をして、疑念があれば疑念を晴らし、心や意識で感じたものだけが見えてくる。

 さらに厄介なことに、ことばや行動は「ふり」をすることができる。人は簡単に笑顔や饒舌、肩書や知能にだまされる。心や意識は、ただでさえ、ちゃんと見ようとしなければ見えにくい。心や意識は、見えない成長だ。

 「こうしなくっちゃ。」「とりあえずこうすればいいんだわ。」「人に合わせておこう。」「習慣だ。」「叱られるから。」「よく見られたいから。」という状態でことばや行動をこなし続けていると、心や意識が成長しない。

 ことばや行動そのものは、人の評価を得ることができる。問題はそこに心や意識があるかどうか。意味があるかどうかなのだが、そもそも成長していない心や意識のままでは、意味そのものがわからない。

 現代、心や意識が成長していない大人たちが何かと事件を起こしてはいないだろうか。表面上、見えたものをそのまま鵜呑みにしていないだろうか。心や意識の成長は、年齢や見た目、肩書や社会的地位とはまったく関係がない。

 一方で、政治の動きや人々の純粋な行動や文化の中に、心や意識の成長を見ようとする新しい時代の動きを感じるような気もしないでもない。本当の意味での平和、共生が生まれることを願ってやまない。

[スポンサードリンク]


第31回いわみ音楽祭出演者募集中です

[スポンサードリンク]


 おーきっなふっくろっを、かったにっかけ〜♪「大黒様」「金太郎」「花咲爺」「青葉の笛」など、今にも唄い継がれている唱歌の作曲家、田村虎蔵は、ここ、岩美町出身です。その田村虎蔵を顕彰する音楽祭です。と言っても、虎蔵様オンリーではなく、手作り感満載のアットホームな音楽祭です。今年は、公民館建替のため中学校体育館での開催です。

岩美町のホームページ – 企画財政課 第31回いわみ音楽祭の出演団体を募集中です。

 募集期間は、2017年5月9日(火)〜6月5日(月)までとなっています。気楽にご参加いかがでしょうか。

ちっちゃいゲジくん

[スポンサードリンク]


 トイレにちっちゃいゲジくんがいたそうだ。今日はお風呂場にはその倍くらいの大きなゲジくんもいたそうで、さすがにその大きいのは外に逃がしたらしい。トイレのゲジくんは今もいる。10センチから12、3センチといったところだ。ちっちゃいと書いたけど、まあまあ大きい。写真も撮ったけど、苦手な人もいるだろうから、少しスケッチしてアイキャッチ画像にした。

 この時季、山陰では、こうした虫が動き出す。彼もいきなり13センチになったわけじゃない。今までは天井裏とか、軒下とか、そういうところに住んでいたわけだ。外の木や、石や落ち葉の間にもいるのだろう。

 ムカデやゴキブリはちょっと同居はできないので、申し訳ないけど、仕留めます。それ以外のゲジくんや、家グモなんかは、ほっときます。彼らと人とは今のところ、問題なく住み分けできていると思う。クモに関しては、そんなに多くはないんだけど、巣を張るクモも、もちろんいます。通り道なんかだと、少し移動してもらったりしますが、基本「住人」のいるクモの巣はそのままにしています。ほっといてもちゃんと巣ごと移動していたりします。たまに住人がいなくて残っている巣は片付けます。

 人間の傲慢さは「弱肉強食」みたいな言葉にも現れています。強いものが勝つ。それが自然の掟? いいえ、単に違いがあるだけです。動物の捕食の関係は必ずしもリングのようにつながっているわけではありません。人が百獣の王と呼ぶライオンも、死ねば、その死骸は鳥や虫や他の動物が食べるのです。

 数の論理も強弱とは関係ありません。数が多いほうが強いのではないのです。それは、強い者が残った結果、現象のひとつであって、勝利ではありません。傲慢になるのではなく、いつくしむ心を失いたくないと思います。

sirawara.com《しらわら・ドットコム》発信

 ここ田後にある城原海岸は、世界ジオパークネットワークに加盟している山陰海岸の中でも、美しい海岸です。この城原海岸は、春に菜の花が咲く菜種島、幽玄な趣のある鴨ヶ磯、遊覧船など、船から眺める絶景である千貫松島など、象徴的な風景がたくさん見られます。季節ごとに表情を変え、毎日見ていても飽きることがありません。

 さまざまな記事の中にこの景色を埋もれさせてはもったいないと思い、城原海岸だけをテーマにサイトを作りました。その名もしらわら・ドットコムです。皆さん、見てください。「城原」の読みは「しろわら」「しろはら」とも言いますが、地元では「しらわら」と呼ばれています。

[スポンサーリンク]


歩きだす名前

 人は、生まれてすぐに最初の名前がつく。そして、死ぬまでにいくつもの名前を身につけていく。男、女、誰かの子、兄弟、生誕地、学校、あだ名、会社、役職、資格、団体、勲章、戒名・・・。

 岩美の人は、見知らぬ人を見かけると「どっから来なっただ。」「あんねのもんか。」と聞く。お礼を言うときも「どこの誰かは知りませんが、親切にしてくれてありがとう。」とは言わない。まず、どこの人か。知っている人の身内かどうか。それが気になる。本当に気になるから聞くだけで、まったく悪気はない。

 三十歳頃に東京から練馬ナンバーの軽自動車で帰ってきた。近所の小学生に「おっちゃん、また来ただか。」と毎日言われた(笑)。何ヶ月後かには「おっちゃん、いつ去(い)ぬるだ。」と言われた(泣笑)。自宅で仕事を始めてもう18年目になるが、未だ親戚や近所の人には「今日は休みか。」と言われる(脱力)。出張専門にやっているため、看板を出していない。だから、本当にそう思うから言うだけで、まったく悪気はない。

 人は、どうして名前を欲しがるのか。どうして名前ではなく、そのままの人の心を見ようとしないのだろう。歩きだす名前に自分を預けたくはないと思う。

平熱の体温を計る

>【日本正規代理店品】Jawbone UP3 ワイヤレス活動量計リストバンド 睡眠計 心拍計 ティール クロス JL04-6262ACH-JP

価格:10,400円
(2017/4/5 22:13時点)
感想(0件)

 「なんとなく寝不足だなぁ。」と思いつつ、夜中の1時、2時までだらだらと起きていて、それが普通という感覚だった。今でもそうだけど、目覚ましがなくても毎朝同じような時間に起きられた。でも、やっぱりいつも睡眠不足は解消されなくて、午後、夕方時間があくと、昼寝をしてしまう。こんなことなら、ちゃんと睡眠をとりたいと思い、自分の睡眠の状態を見ることができるJawbone UP3に興味を持った。UP3というのは、アクティビティトラッカー、日本語でいうと「活動量計」のひとつだ。UP3発売当初、発売延期があったり、いろいろなトラブルがあったために大きな有名サイトで酷評され、評判を落としてしまったが、製品そのものはその後もいくつかの改良を加え、アプリも新しくなって良くなっている。REM睡眠や深い睡眠の状態を毎日詳しく見ることができるというのは、しばらく前では考えられないことだった。

 睡眠の状態が詳しく見えるようになると、今朝はREM睡眠が少ないから、今夜は頭を休めようとか、時間が足りなかったので、早く寝ようとか、しっかり睡眠を取るようになるし、一定の時間に眠りにつくようになる。それからUP3の特長は、微弱電気により心拍数を計測できること。これも自分の体の状態を知るうえで欠かせない。歩数ももちろん計測できる。

 ある時、平熱の体温を自分が知らないことに気が付いた。これまで自分の体温を計るというと、風邪をひいたときか、病院で検査をするときくらいだった。病院そのものにはここ何年も行っていない。そこで、体温計を購入し、記録することにした。UP3のアプリには、体温を記録する項目がなかったので、iPhoneの「ヘルスケア」で記録をとることにした。体温計っていうと、もう水銀を使った体温計はなくて、電子式で、早く計れる機能のついたものがほとんどだ。体温計も電気屋で買う時代なんですね。ぼくは、いろいろ機能のついたものではなく、しっかり時間をかけて計れるシンプルなものを購入した。これが一番安いし、長持ちする。

オムロン 電子体温計 「けんおんくん」【わき・口内両用】 MC-170[MC170]

価格:638円
(2017/1/11 22:11時点)
感想(6件)

パソコンって必要なのかな

 ぼくはパソコンを必需品だと思っている。仕事でWindowsを使う、マックも使う。パソコンがなければ暮らせないだろう。

 しかし、ほんの30数年前には、携帯電話も持っていなかった。新聞の折り込み広告の中で裏面に印刷されていない紙を探して、折りたたんで、また適当な大きさに切ったりして、メモ代わりに使っていた。今でもそれで事足りる暮らしをすることは可能だ。パソコンがなければ暮らせないというのは、単なる思い込みだし、本当は幻想だ。

 こうやってホームページに文章を記しているとき、本当は原稿用紙でもなんでも構わないのだ。人に伝えることが目的ではない。誰かに読まれる確証はまったくない。もともと自分の考えを整理することが目的だから、読まれなくてもいいし、メモに走り書きをしたってかまわないのだ。ある日突然消えてしまってもうろたえない自信はある。

 生活に必要なものは、個人商店があまり流行らなくなったこの時代でも、ごく身近に手に入れられる。コンビニだって本当は行かなくてもいい。このコンビニにも行かなくてもいいという考えをもっと広げると、この世の中で「便利なモノ」として挙げられるモノのほとんどが実は必要のないモノばかりなのに気付く。その「便利だけど必要のないモノ」の代表がぼくにとってのパソコンなのだ。出来るなら家だって、クルマだって手放したい。あまりこういうことを考える人はいないかも知れないが、ぼくは20代の頃は浮浪者になりたかった。彼らのほとんどは、浮浪者になりたくてなっているわけではないし、なろうとしてなるものでもない。だが、それくらいモノを持たない生活に憧れていたのだ。

 50代半ばを過ぎて、またふつふつとモノを持たないことへの憧れが浮かんでくる。それはある意味死への憧れなのかもしれない。墓や位牌も持たず、存在が消えるような死に方がいい。だいたい死人にモノを持たせようというのは人間はどこまで傲慢なのか。少しずつ、そのような瞬間に近づけたらいいなと思っている。