「自分は何歳まで生きられるのだろう。」「いつ、どんな形で死を迎えるのだろう。」「ずっと健康でいられるのだろうか。」
年齢を重ねるとともに、ぼくも、そんなことを考えることがあった。
ふと、年齢は肉体の状態を表す「ものさし」のひとつに過ぎないことに気づく。「何歳だから・・・。」というのは、一人ひとり違うし、ふだんの生き方や環境でも違ってくる。
200歳まで生きる。
ときどき、ごく親しい人に冗談のように「ぼくは200歳まで生きるから。」と言うことがある。もちろん、現実に200歳まで生きたら、バケモノだ。それは、ありえないと思う。
ただ、人生が200年あると思えば、意識が変わる。
この瞬間に、同じ時間を共有している人が存在しているということだけを考えても、それぞれが奇跡の存在に思えてくる。
「同世代」という言い方があるけれど、今ここにいるすべての人々が「同時代」人と言っていい。
年齢というものさしで区切ることに、あまり意味はないんじゃないかと思うのだ。
お酒が飲めるとか、年金がもらえるとか、社会制度上必要な「ものさし」、人と比べるときに便利なもの、でしかない。
そうは言っても歳はとる。
それも事実だし、現実だ。事実は事実として、どうするかを考える。体力も衰えるし、シワは増える。そういった変化を単に衰えと見るか、そのものさしに見合った年数生きた証と見るか。
60年生きないと60歳の肉体は得られない
結局、今ここにある肉体が自分自身の100%であって、今だからあるものだ。常に、それ以上でも、それ以下でもない。
20歳の人は20歳の体を持っているし、60歳の人は60歳の体を持っている。その年齢に見合った肉体が目の前にある。
ぼくは59年生きたから59歳の肉体を得られたのだ。
ぼくはよく腰痛になるが、20代からの持病だ。20代のときより、うまく付き合っていると思う。だいたいこれくらいというのがつかめてきた。痛いのはいやだから、予防として、ストレッチも運動もする。もう歳だからあきらめるというのは、ない。もちろん、ヘルニアになったり、手術をしたりして、状況が変わる可能性はある。その状況は状況として、受け入れる。痛みがあれば、痛みと付き合う。
一番こたえるのは愛する人の死だ
自分のことは、そんなふうに思えても、愛する人が死ぬことがいちばんつらい。
それはそのままで、今ここに愛する人がいることへの感謝に変わる。
ありがとう。