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霊が見えるという体験

ぼくが、こういう話をすると、稀で、不思議な体験をしているという風に受け止められることが多くて、かえって戸惑うことがある。ぼくは、単に日常の風景のように時折、霊(のようなもの)が見える。

五感とは制限の多い感覚

もともと、人間の知覚できる領域は、あくまで人間が生きていくのに必要な領域に限られている。五感と呼ばれる感覚もそうだし、運動能力もほかの動植物などとは全く異なるものだ。

それらの感覚や運動能力も環境によって変わってくる。砂漠に住む民族が、地平線の向こうにいる人が誰かを知る能力は必然的に身についたものだ。

障害者を支援するボランティアをしているとき、ある全盲の方がふと今日はあの人がいないとか、何人だとか言っているのを耳にしたことがある。本人にとっては、音や気配だけでそれがわかるのは自然なことであって、まわりが驚くのは盲人である当人は意外に思うようだ。

霊は常にそばにいる

幼い頃から、家の中には常に知らない誰かがいたし、その誰かは、何となく違う空間にいるような感覚はあった。

たとえば大黒柱のそばには、何年たっても歳をとらないおばあさんが座っていた。今は何故かいない。

おばあさんは、言葉ではなく、イメージで、あるいはインスピレーションのようなもので時折メッセージを伝えてきた。

目に気をつけて、とか、だいじょうぶとか。そんなあやふやな感じだった。

ぼくは、足だけの霊とか、壁から突き出したような首だけとか、そういう何か、それが本当に霊なのかどうかはわからないけど、見えることがあった。音を聞いたり、声を聞いたりしたこともあった。

怖くないんですか?と聞かれることがあるけど、ぼくは、ムカデやヘビの方が怖いし、30センチくらいの大きなゲジゲジや手のひらくらいの大きなクモを見るとギョッとするけど、じっと見ていると、ムカデやヘビほどは、そんなに怖くはない。霊もそんな感じかなと思う。

霊より怖い人の意識

悪霊とか、除霊とかというものが実はよくわからない。

霊よりも怖いのは、人間の意識だと思う。人間の思考には、簡単に偏った思考に支配されてしまう弱さがある。思い込みもそうだし、押し殺して取り繕う習性もある。ぼくの中にもそうした、思い込みや押し殺したものがあって、心を見失っていた時期があった。

社会的には何の問題もなく、善良な一人の人間として生活しているのだけれど、どこか拠り所を見失っている自分自身を感じていた時期だった。

そんなときに「ハートチャクラに穴があいています。」とズバリ言ってくれた人がいた。

社会に合わせる、認められる存在になることに集中しすぎていて、自分を大事にしていなかったんだと、それからしばらくして、気がついた。

今は見えないけれども

そういえば、柱のおばあさんは、それ以降見かけない。他の霊もそんなにひんぱんには見なくなった。

氣(き)というのは、エネルギーを持ったある種の振動を言う。周波数によってはたらきが変わり、異なる形として現れる。

チャクラに色があるのも、周波数の違いからくるものだ。

霊体は、知覚した人間によって、存在することができる。物質の世界よりも、次元の低い存在であり、ある種のエネルギー体と言える。現代の物理学で存在が証明できないだけで、確実に霊体は存在する。

人は死んで霊になるのか

ぼくは、人が死んで霊になるというのは、ないんじゃないかなと思う。人は死ぬと、肉体を自然に返す。単に肉体から離れるだけなんだけど、肉体がある間は、苦しみからは逃れられないだろうし、それが人間なんだと思う。

霊が見えるというのは、決して特殊な能力とかじゃなく、ほんの少しだけ違う次元を感じたとき、脳が、五感で感じられるものに変換して見えたり、聞こえたりする、誤作動のようなものだと思う。そういった脳の誤作動は誰にでもあって、また一人一人が違う能力を持っているに過ぎないんじゃないかと思う。

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