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essay

時間は、距離でも、壁でもなく。

今日、ある友人と20数年ぶりに会った。「久しぶりだね。」とは言ったけど、数秒後には昨日会ったのと変わりなく、ただ心地良い。お互いが歳をとったことも自然だった。たまについ口癖で敬語が出てしまうけれど、それもおかしいくらいで、まったくいやではない。

彼女とは、パソコン通信をやっている全国の35歳がネット上で出会い、会話をするという実験的な番組で知り合った。

熱くなったり、ダラダラと長くなったりする画面上の会話に彼女は、すっと、さらっと入ってきて、いつの間にか、うまくまとめてるみたいなところがあった。いつも自然体で、柔らかさがあった。

20数年前に、ぼくが鳥取で忘年会をしようと呼びかけて、全国から10数人が集まってくれた。その中に当時海外で暮らしていた彼女もいた。まったく印象どおりだったことを覚えている。

「(宴会場の外に見える)この道路は、ぼくがこどもの頃にはなくてね。ずっと砂浜だったんだ。」

彼女は、富山の海に似ていると言った。実家だったのか、おばあちゃんの家がそうだったのかは覚えていない。

今日は彼女のダンナさんも一緒だったが、なんだか二人が二人でいることがしっくりくる、そんな感じがした。

今日わかったのは、時間が距離に感じられたり、壁になったりするのは、みんな幻想なんだということ。

伝わる相手とは、いつどこにいても同じ空間にいるのだということ。

そして、その幻想を現実のものだと勘違いしているのは、執着という強い思いなのだということ。

同じ空間にいるのだとしたら、執着はいらない。お互いが事実だけを見て、認め合うだけだ。そして、心から尊重しあえる。

また会えると思う。それがいつになってもかまわない。会えたらうれしいと思う。