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稲田姫邂逅記(前編)〜八重垣神社〜

 今回のイベントについて出発前に抱いていたのは、漠然としたイメージだった。

「奥出雲たたらの里に、たたらの象徴となる大きな桂(かつら)の木があって、ライトアップされたその木の下で演奏をする。」というものだ。

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 ひと月ほど前、最初の電話で「予算があまりないんです。しかも遠方です。無理ですよね。」こう尋ねられた。こういう場合、以前なら「あらためてこちらからお電話します。」と言って電話を切っていたかもしれない。でも、そうしなかった。6年前に島根県立美術館でのぽんかん。の演奏を聞いた方から、「あの時のオカリナと歌が忘れられない。」と言われて、あちこち情報を探して、電話をくださったというのだ。「縁があり、思いがある。」ということが伝われば十分だった。「行かせてください。」とこちらからお願いをした。

 温かな人たちに出会える期待と、ライトアップされた桂の木。そんな神様でないと立てないような場所で演奏できる喜びを感じていた。

 そうした漠然としたイメージだけを持って、2017年10月14日午前9時半くらいに岩美町を出発した。

 事前にルートを調べなかったわけではないけれど、「何となく国道9号をまっすぐ松江のあたりまで行く。そこからルートを考える。」と決めたのは、出発して15分ほど、鳥取道に向かう道の手前だった。鳥取道を通れば、高速中国道に合流する。その時そのルートを選ばなかったのは、9号をまっすぐの方が走り慣れていたからに過ぎない。

 松江中央という出口で降りた。これも「松江駅」という案内標識が見えたからで、でもなぜか駅の方とは反対に向かうことになった。その先に「八重垣神社」という標識が見えた。それでとりあえずそこまで行ってから考えようということになった。

 神社は、連休だからか、人が多かった。何かご祈祷が始まるのか、社殿の中にも人がたくさんいた。社殿の中央奥には御幣を垂れた50センチくらいの高さの柱が3つあった。その真ん中の柱が赤く光を放っているように見えた。順番を待って、お賽銭を投げ入れ、手を合わせると、社殿の中央に宮司と思われる方が、その柱の前に座った。ちょうど式典が始まるところだった。

 私たちぽんかん。の二人は、一歩も二歩も下がり、次の人のために場所をあけたが、その柱を見つめ続けた。そこから目が離せなくなっていたのだ。

 宮司が祝詞(のりと)を上げ始める。良縁成就のお祝いのことばと思われたが、二人はちがう神の言葉を聞いていたように思う。

 そこでようやく「ここは何?何を祀っているところなんだろう。」と思い、まわりを見渡すと、境内の中に質素な建物を見つけた。そこには、700年以上前に描かれた稲田姫の板壁画があるらしいことがわかった。谷口さんはその存在を既に感じていたようだったが、ぼくは、稲田姫とその建物の中で初めて対面する。

 絵の具が剥がれ落ち、すっかり地肌の見えるようになった大きな板に、残像のように6つの人物画が描かれているのが見えた。中央の稲田姫の姿だけは全体がくっきり見える。平安時代の衣装をまとい、頬を赤く染めた眉毛のない長い髪の女性として描かれている。

 稲田姫は、現代ではもちろん、平安時代ですら、古い日本神話の中の登場人物、いや登場神である。高天原(タカマガハラ)から追放され、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した素盞鳴尊(スサノオノミコト)の妻であり、その後大国主命(オオクニヌシノミコト)など多くの神々の母となる神様だ。素盞鳴尊が大蛇と闘っている間、髪をとかす櫛になっていたので、奇稲田姫命(クシナダヒメ)とも呼ばれている。

 その時、はっと思ったことがある。いつもなら出発してすぐにナビに沿ってクルマを走らせるところ、結果的に遠回りをして松江まで行き、八重垣神社に立ち寄ることになったのは「ここに来る必要があったのだ。」と。稲田姫のことを知らないでこのイベントに参加していたら、演奏そのものも、伝わるものも違っていただろう。

 松江から奥出雲までの道中は農道や山道だった。あとで聞いた話では、地元の人は米子や横田から行く道の方が整備されていて早いそうだ。しかし、その道中でまたしても「稲田姫」に関わるイベントを開催している会場の前を通ることになった。

稲田姫邂逅記(後編)〜たたらの灯オープニングコンサート《番外編》〜

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意識、無意識の世界

 前回、「意識、無意識は『氣』の循環によって形作られる。」と書きました(前回の投稿記事)。そのあたりをもう少し書いてみたいと思います。

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 人には五感(見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる)があります。五感で表せない感覚を「第六感」と言ったり、当岩美町出身の尾崎翠(おさきみどり)さんという作家の方は『第七官界彷徨』という作品の中で、さらに第七感〈第七官界〉があると記しています。

 一般には、こうした感覚を自覚することを「意識」といい、感覚のうち、自覚できない領域を「無意識」と呼ぶようです。

 ここで、もう一度「氣」について触れておきたいと思います。

 自然の中にいる動物は、「氣」に満ちています。身の回りにあるすべての世界を、呼吸を通じて、肌で、その瞬間瞬間に感じているからです。

 人間は「感覚」を「知覚(知識)」で補う存在です。「見ているようで、見ていない。」「聞いているようで、聞いていない。」匂いにも、味にも、触覚にも驚くほど鈍感です。こう書くと、その鈍感さに、誰しも「自覚」はあると思います。どの感覚もわざわざ「研ぎ澄ます」ことをしないと働かないのが人間です。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえ、感覚を研ぎ澄まそうとしている人もたくさんいます。しかし多くの人は「感覚」を、さらに多くの「知覚(知識)」で補おうとします。その結果、どういうことが起きるのか、想像できるでしょうか。「知識」「思考」を「意識」だと思い込むのです。そして、その「意識」を自分自身の「意思」だと誤解することがあるようです。事実、その「意識」にはその人にとっての「意味」がありません。

 「こんなときは、こうするものだ。」「有名な先生が言っていた。」「あの人は、こんな人だ。」意味ではなく「理由」を探してこんな言葉を投げつけられることがあります。

 「氣」を取り入れ、感性を芯でとらえることで、「知覚(知識)」が、正しく「知性」として働くのではないでしょうか。そして、行動に現れるのは「無意識」の領域です。「意識」が捉えられないと、「無意識」は正常に働きません。意識、無意識の世界のバランスが保てないために、現代の人々は多くのストレスを抱えているように思えます。

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呼吸について

 高僧が修行をすると、見えてくるものは超人的な悟りの世界だと言います。

 より位(くらい)が高くなり、一切の欲が消え、仏の言葉を授かるのだそうです。食を切り詰め、滝行などの苦行を経て、死の淵をさまようこともあるそうです。

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 私はそうした仏門の身ではありませんし、そういう修行とは無縁に思えます。

 そんな私も、それでも自分自身を内面から見つめたいと思うことはあります。

 自分自身というものは、人からどう見えるかという外面だけではありません。

 内面は、見たり聞いたり触れたりできる、知覚できる世界ではないので、自分自身の感性と思考を通じて、魂そのものを見つめることになるのだと思います。

 さてさて、その魂というものも、見ようと思えば思うほど、もともと見えるものでもないので見えなくなります。こうした五感で感じることができないものをどうやって、自分自身の感性と思考とが捉えられるのでしょうか。やはり苦しい修行をする必要があるのでしょうか。それとも哲学のように自分に問いかけるのでしょうか。

 ふと、生命の根源は呼吸なのではないかと考えました。空気を吸い、酸素を取り入れて、残りの空気を吐き出すあの呼吸です。

 ある時雨宿りで、緑の木立の中でただ佇んでいました。そのときにまったくその木立の呼吸と同期しているような感じがしたのです。動物の呼吸と植物の呼吸はまったく異なるものですが、どちらも生命の根源なのだと教えられたように感じました。そこにあるのは「氣(き)」です。

 「氣」がすべての細胞に行き渡り、歯車が動力を伝えるように、動き始めます。心臓が休むことなく鼓動し、肺が収縮と拡張を繰り返します。

 たとえば、ただ「歩く」という動作も、そうした一つ一つの歯車が伝わって初めて実現します。すべてがバランスする必要があるのです。

 こうして自分自身を見ようとしたときに、「氣」が作り出すエネルギーが循環することによって、人は行動し、思考が生まれ、そこに意識、無意識が形作られるというイメージが浮かびました。

 その意識、無意識については、また書いてみたいと思います。

アイキャッチ画像はphoto-AC

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目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

 つい最近、人類はかつてスーパーマンだったという記事を書いた。上空からしか形がわからないような巨大な構造物を作ったり、巨石を積み上げて、ひとつふたつならいざしらず、まるで日常の仕事のように年間400個もの古墳を作ったりした人類。

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 どう考えても、この地球には、ある時期、それも1万年くらいのスケールの時間の長さで、スーパーマンが存在していたのだ。これだけさまざまな証拠が見つかっているにもかかわらず、科学者が認めようとしないのは、当時の人類は現代の人々より劣っていたと考えているからだ。

NEVERまとめ-人類の歴史よりも古い『1万年前』に作られた遺跡まとめ

 現代人は進化しているのではない。自らが作り上げた文明によって、どんどん退化している。そしておそらく、数万年前にも経験した人類の滅亡を近い将来、経験することになるだろう。

 なぜ、人類は退化していると考えるのか。どこがどう退化しているのか。その退化は何がきっかけで始まったのか。

 まず、上空からしか形がわからないような巨大な構造物がどうして作られたのか。ナスカの地上絵もそうだし、日本の古墳の多くもそうだ。

 「当時の人類は、空を飛ぶことができたのだ。」と言いたいところだが、空を飛んだ証拠がまるでない。ただはっきり言えることは、当時の人類は、その広大な空間を認識する能力が非常に高かったのだろうし、もしかしたら、ある種の鳥類と交信ができる能力者がいたのではないだろうか。そう考えると、無理はないだろう。

 古墳は、祭祀を行う集会所であり、生活の場のひとつだったと考える。石棺があるために現代の人々はあれを墓だと考えているが、あれは、石を運ぶの中でも書いたが、最終的に施設が役目を終えるときに、取り壊すのではなく、「復活」を願い、最も影響を与えた人物の遺体を安置して扉を閉ざしたのではないだろうか。

 現代人が忘れ去った、その結果退化してしまった空間認識能力、ことばによらない、動物とも交わすことができた交信能力、生死の概念を超えた生活様式など。それらの多くは、人類が言語、文字を操るようになると、急速に消えてしまったのではないだろうか。つまり、文字の発明、その後の文明こそが人類の退化を加速した原因なのではないだろうか。

 さらに言えば、人と人とのコミュニケーション能力も変質したのだと思う。現代の人々の特徴の多くは、コミュニケーションに「感情」が多く作用する。年齢、肩書、性別、見た目の印象などが意識下、無意識下にイメージを作り上げ、そのイメージに対する感情をもとにコミュニケーションが始まる。その結果、いとも簡単に現代人はイメージによって感情が左右され、だまされてしまう。

 人類が退化するにしたがい、争いごとが増えた。同じ頃、文字や言語が発達すると宗教が生まれる。そうした宗教家が共通して人類に伝えようとしているのは「目覚めよ!(Awake!)」ということではないだろうか。完全に失われているのではない、眠っている能力が人類にはあるのだと思う。

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あらきまたえもん

 荒木又右衛門をひらかなで書いてみた。

 なんか、かわいらしい。

 ぽんかん。に丸が付いているのと同じような感じだ。

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 もちろん、荒木又右衛門と言えば、伊賀の鍵屋の辻の決闘で有名な剣豪であり、終焉の地である鳥取市玄忠寺にお墓がある。

 鳥取市内には、荒木又右衛門を祀った神社もあり、若桜橋の近くに黒住教鳥取大教会所の境内に小さな鳥居と祠がある。2017年8月26日土曜日、毎年この時期にやっているという奉納と夏祭りに招かれてぽんかん。で演奏した。

 夕方5時半、神聖な儀式から始まる。在りし日の剣豪を忍ぶとともに、平和への祈りの時間だ。その後、剣道場で使いこまれた、竹刀、木刀を燃やす供養の儀式に移る。近くの道場の子どもたちの剣道の型、なぎなた、金属の刀身を持つ本物の刀を使った有段者の大人の演武、詩吟に合わせた演武など、剣豪を祀る神社にふさわしい出しものばかりだ。

 予定より少し遅れて6時25分くらいから演奏を開始した。

 荒木又右衛門は、池田公に招かれて鳥取に来た。妻子を呼び寄せるが、妻子が到着する前にこの地で死んでしまう。この史実に合わせ、音楽の奉納という意味で、伊福部昭作曲の大伴坂上郎女「わがせこが」を1曲目に歌とオカリーナで演奏した。

 続く曲目はいろいろだったが、珍しく乱れたり、ミスをしたりした曲もあった。それでも、その乱れやミスを含めても、いい演奏だったと思う。会場一体となった充実感があった。実際に声をかけていただいたが、多くの方に喜んでいただいたと思う。

 ちょうど7時くらいに演奏が終わり、司会進行の女性が「見てください。きれいな夕日です。」と言っていた。赤いピンクの空だった。宮司の弟だという男性に「シルクロード」のテーマをリクエストいただいて、演奏できなかったことを記憶にとどめておこうと思う。

 リハーサルのときに不思議なうなり声を空の上に聞いたことも忘れない。

 神は信じようが信じまいが、確かに姿を見せることがある。今年は特に神社に縁があると感じている。

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石を運ぶ

 今ではクレーンやリフトトラックなど、多種多様な重機械があるから、重いものを運ぶのはそう困難ではないかもしれないが、古墳時代に人々は石をどうやって運んだんだろうか。

 石の比重は2.5~3.0くらいあります。たとえば一般的な冷蔵庫の大きさが100リットルだとすると、水なら100キロだけれど、石だと250〜300キロくらいある計算になります。これって、まず人力では、持ち上がらないでしょう。墓石や石棺になると、もっと重いものもあるわけです。重機械がない時代に1個の石を運ぶだけでも、現代人なら相当苦労します。お神輿をかつぐ要領で、たくさんの人数がいれば重いものも持ち上げられると思うのですが、そんなにたくさんの人が石を運ぶためだけに毎日働いたのでしょうか。

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 前回、古代人はスーパーマンという話をしたので、もう一度スーパーマンに登場してもらいましょう。

 言葉や文字に頼る必要のなかった時代の人類は、特別な能力を持っていたとは考えられないでしょうか。

 当時接点すらなかった遠距離の人々が同じ形の装飾品を身につけていたり、同じような家を建てたりしていたことをどう説明できるのでしょうか。そもそも、あの勾玉(まがたま)と言われる奇妙な形の装飾品はなんなんでしょう。石や骨や金属をあの形に、しかもさまざまな大きさに加工する意味はなんでしょうか。勾玉は、当時の人々が持っていた何か特別な能力の存在を象徴しているような気がします。

 彼らは、その能力を使って、いとも石を簡単に動かすことができたのだと思う。現代人にはわからないし、証明できない方法があったと考える方が自然です。

 何しろ、日本全国で、わかっているだけで、年間400個もの古墳を作っているのです。それに古墳というのは、もともとは墓ではないでしょう。現代の寺のような、何かしら儀式をやるための施設だったのでしょう。さまざまな儀式に使われ、最終的に、当時の有力者が葬られたと考えられないでしょうか。誰かが葬られたのちには、入口を閉ざす習慣があったので、また新たに作られたのだと思います。

 現代人にはすっかり退化してしまったけれど、人間には隠れた能力が今でも存在するかもしれません。計算やデータの蓄積に頼らない、感性を軸とした「知性」こそがその鍵を握るのかもしれません。

 ダンプの画像は、123RFのUSのサイトからダウンロードしました(リンク先はJP)。

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人類はかつてスーパーマンだった

 ダーウィンの進化論って、ぼくは疑問なんだよね。そりゃ、進化もするだろうし、退化もするんじゃね?って。動物の生態って、環境が変わると、適応する、変わる、常に変化するし、常に多様性があるってのが正解なんじゃないかと思う。現代のニンゲンだってさ。背の低い人もいれば、高い人もいる。知能だってさまざまだよね。

 だからさ。たとえば、原始人とかって言って、発掘された人骨らしきものから、学者さんが想像するんだけど、あれってどうなのかなって思う。「あれ」って、あれよ。なんか毛むくじゃらで、腰みのみたいな最低限の服着て、ちょっと猫背で、猿みたいな顔しててっていう想像図。いやま、そういう人もいたんでしょうよ、きっと。それすら、マユツバだけどさ。

 スラっと背の高い、頭のいい人もいたんじゃないかな。それも、紀元前何万年というような世界にもさ。

 もちろん風習とか、思想、概念みたいなのは、今とはまったくかけ離れていたんだと思うよ。

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 その頃の文明だって、地底、海底なんかから遺跡が見つかっていたりするじゃない。それも、1万年くらい前の遺跡が実際に出てきているわけさ。それだけ高度な文明があってさ。文献が残っていないっていうのはもしかしたら、人々が意思を伝えあうのに、言葉や文字に頼る必要がなかったんじゃないかな。

 死生観とかも今とは違うんだろうな。だいたいは、そんなに長生きじゃなかっただろうとは想像するんだけど、でもその中でも随分長生きをして、100歳とかでも、普通に元気な人もいたかも知れなくて。

 そうしたときに、ふと気付くのはさ。お墓って、そんなに古いものは見つかっていないんだよね。エジプトのミイラとかあるんじゃねって思うかもしれないけど、あれはさ、古いって言っても、3000年くらいなのよ。しかも、死者ではなくて、蘇る者として作られてる。そういう思想なわけ。

 先日世界遺産登録の候補地になった大阪の百舌鳥古墳群(堺市)、古市古墳群(羽曳野市・藤井寺市)なんかも、1500年前というから、めっちゃ近代です(正確な用語では「近世」ということかな。ここでは学術論は省きますが)。

 そしたらさ。文字も言葉も、今のような宗教が生まれる前のニンゲンってさ。お墓も必要なかったって考えられないかな。「死」をそのまま「死」として受け止めていたんじゃないかな。「悲しい」「寂しい」はもちろんあっただろうけど、「肉体がなくなった」「一人の人として動かなくなった」という悲しさ、寂しさであって、日常の変化のひとつに過ぎなかったんじゃないだろうか。

 さて、次くらいに、その古墳のはなし、おもしろそうなので、ちょっと考えてみます。

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 アイキャッチ画像はGATAGフリーイラスト素材集から、進化論のイメージは、植山周一郎さんのブログから、ダウンロードさせていただきました。

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夏の終わりのミステリー

 通りの向こうで青い服を着た人が走ってくるのが見えた。その姿が非常にスローモーションだ。それに30度くらい傾いて見える。よく見れば道路から浮いている。ああ、これは霊だなと思う。

 霊が見えるというのは、五感の他の感覚があるということで、不思議でもなんでもない。小さい頃から、顔が半分しかない人や、壁から突き出た首が見えたりもした。

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 霊に見えるものは、脳内の映像であり、イメージだ。もともと複雑な音波・電波・光波の周波数だったり、空間の歪みだったり、時空のぶれだったりするものが、仮に第六感だとすると、その第六感を通じて脳内に映像を作り出す。

 霊に見えるものに、霊障はないと思うし、もとより恨みなどない。なにより一番怖いのは、生きている人間だ。もし、死んで恨みや怨念が残るのなら、世の中には、人間に殺されて、非業の死をとげた動物の霊であふれかえるはずだ。

 小さい頃は、それは怖かった。霊が見えることが怖いのではない。信じてもらえないのが怖かった。

 いろいろ調べていくうちに、脳の働きの解明されていない部分に、そういう働きがあるのではないかというふうに思うようになった。脳の中では、視覚であったり、想像であったり、記憶であったりと、さまざまなイメージが映像として常に流れている。そこに、潜在意識の映像が流れ込む。映画『マトリックス』で描かれていたのも、そういう世界観だった。そして、それも現実世界である。

 こういうことがわかってくると、生命というのは、奇跡的な現象だということがよくわかるようになる。人と人とは、見えないつながりが確かにあるし、偶然の多くは必然である。

 ここまでの話、あなたは信じるだろうか。たまにはこういうオカルトっぽい、ミステリーはどうだろうか。

 アイキャッチのかわいらしい舌を出すお化けはここからダウンロードさせていただきました。

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夢は遠い未来ではなく、ここにある。

 人は「達成感」のために生きているのだろうと思うことがある。

 そして、そのために「夢」を持とうとする。

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 だから、家の裏山に登ったことはなくても、富士山やチョモランマを目指す。

 そこにたどり着くためには、苦労し、努力もするし、我慢もする。

 それはいつしか、その夢を達成した人を師と仰ぎ、その師の方法論を学ぼうとする。

 学ぶことは意味があることだ。そこに疑いはない。

 しかし、師の教えが「絶対」となると厄介なことになる。その師の教え以外のものが見えなくなるからだ。それは、時として、今ある現実、自分自身をも否定することになる。

 夢は、もともと心にあったものをイメージに変えたものに過ぎない。

 そういう意味では、眠っている時に見る夢も、目標となる現実の夢も変わりはない。

 夢は、今、ここにあるもの。いつも心を見ていたい。見つめなおしてみたいと思う。

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第10回岩美現代美術展8月5日シンポジウム

 岩美現代美術展は、2017年8月5日〜21日まで旧岩美病院の「Studio652」で開催される、今年10年目を迎える現代美術のアート展です。詳しくは、岩美町HPお知らせ「第10回岩美現代美術展を開催します!」をごらんください。

 8月5日(土)には、シンポジウム「地域における現代美術の可能性」が開催され、実行委員会代表の小山勝之進氏の開会あいさつのあと、團紀彦氏の基調講演が行われた。

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 團氏の講演はたいへん興味深いものだった。開口一番「建築家というのは、アーティストに比べると、中途半端な存在だ。」と言われた。「建築物にはどうしても、イメージに制約が加わる。材質がどうか、強度がどうか、さまざまな条件をクリアしないと建築物は生まれない。」

 氏は、まず岩美町を訪れて「鎮守の森がありますか。」と町の担当者に尋ねたそうだ。そして、浦富の熊野神社を案内していただいたそうだ。

 なぜ「鎮守の森」か。スダジイなどの広葉樹の森、それも一種類の木ではなく、さまざまな種類の木が作る森があることが条件なのだそうだ。それは、人の手で育てる里山とは違う。その違いはなんだろうか。話が核心に触れる。

 氏が青山学院大学で、都市学の講義で学生に話されたのは、「たとえば、明治神宮の場合、神社の植生は100年設計で考えられているということだ。神社の周辺に木を植えるときは、『実のなる木はご遠慮下さい。花の咲く木もご遠慮下さい。』と言われるそうだ。花が咲き、実が実ると、道ができ、下草が育たない。ただし、木が一種類だと、病気になって枯れる。公園とは逆の発想で、人が入れないように森を作る。いわゆる里山は人の手が入った方が育つ。鎮守の森は、容易に人が入れない。」

 スライドでユーラシア大陸を上空から見た地形図が映し出され、中国とか、朝鮮半島、日本を上空から見ると、緑が多い。西に行くほど、茶色くなる。

 「アジアの都市の特徴は、都市と自然の境界がはっきりしないで、溶け込んでいる。逆にヨーロッパでは、都市と自然とは、はっきり区別がある。自然=無法地帯といっていいくらい、はっきりしている。こうして、ユーラシア地図を見ると、日本や中国には緑が多い。仏教も元は(色が茶色い=緑が少ない)インドから発祥しているし、哲学、宗教は、茶色い所から多く出ている。」

 氏の話は、共生とは何かにつながっていく。その上で「Symbiosis with Land 大地との共生」「Symbiosis with Others 他者との共生」「Symbiosis with Time 時間との共生」という3つの面を実例を挙げながら解説された。

 その中で特に興味深かったのは、「大地との共生」で話された、京都にあるスイミングプール(冬はスケートリンクになる)「京都アクリーナ」の設計例だった。元は平坦な土地に建築物を建てると、巨大なものになる。氏がその設計をシチューでたとえていたのも面白かったし、とてもわかりやすかった。その土地の土を運び出して、一つ一つの機能をシチューの具にたとえて配置する。そして、土を戻して、地下になる部分に機械室を作った。地形ごと設計したというものだった。

 もっと興味深い話は続くが、話は尽きない。書ききれないほどだ。

 氏が講演の最後に岩美町にヒントとして残してくれたのは、スペインのサン・セバスチャンにあるチリーダの自然と共生する作品群を紹介してくれたことだ。今回岩美町で大谷海岸に麒麟獅子のオブジェを作ったのも、そういうメッセージが込められているのだろうと思う。かつて以前岩美町でランドアート作品を作ったことがある大久保英治氏がこの岩美現代美術展に残してくれたメッセージにも通じるものだ。自然との共生、その可能性のある自然がここ岩美町には確かにある。

 講演のあとには、團紀彦氏、栩山孝氏、山本修司氏をパネラーに迎え、三浦努氏の進行でパネルディスカッションが行われた。

 パネルディスカッションの話の底流にも、冒頭の「鎮守の森」が流れているように感じた。自然にかなうものはないと。建築は自然を生かしたものだけが長く残る。長く残るからと言って、神社の狛犬をステンレスで作るわけにはいかない。美術館というものも、美術品が流出したり、売り買いできるようになってから作られたもので、最初の美術館が出来てからでもせいぜい200年くらいの歴史しかない。

 最後に今年町長を退くことが決まった榎本武利岩美町長のあいさつがあり、1時間延長という充実したシンポジウムが幕を閉じた。

 18時からは、会場を大谷海岸に移し、野外作品の紹介と、地元の麒麟獅子舞が演じられた。この日の司会は谷口尚美氏、暑い一日だったにもかかわらず、落ち着いた進行で時間の長さを忘れることができた。

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