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最低音ソの出るオカリーナ

田後90楽器博物館#30

久しぶりの楽器紹介、投稿です。

オカリーナという楽器は、音域が非常に狭く、楽譜の上では、五線紙の下第2線上のラの音から、第1線のファまでしか音が出ません。民謡や童謡唱歌などの多くは、この音域で収まる曲目もたくさんあるのですが、それにしても低いソや高いソが出てくる曲があると、音を上げたり下げたりして、調整することもあります。もっと広い音域の曲を演奏するときには、メロディの一部を音域に収まるように変えたり、曲の途中で別の音域を持つ楽器に持ち替えたりします。

最近よく見かけるダブル、トリプルといった複数管のオカリーナは、音域の異なる2つ、3つの楽器が一体となった楽器で、吹口が一箇所に2つ、3つ並んでいます。これなら、持ち替えなくても一つの楽器で広い音域が演奏できるわけです。

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今回紹介するのは複数管のオカリーナではなく、アケタ(プリマ楽器)のB♭管のオカリーナです。

以前、高いファは出なくてもいいけど、低いソが出る楽器が必要な場面があった。C管で低いソが出るように穴の数を増やした楽器(つまり高いファもそのまま出る)も作られているけれど、作るのが難しいためか、滅多に手に入らない。そこで、このアケタ(プリマ楽器)のB♭管のオカリーナを使ったことがあります。どういう楽器かというと、アルトCのオカリーナをそのまま1音下げた楽器ということになります。B♭用の楽譜を準備してもいいし、C管の楽譜を1音「上げて」演奏してもいいわけです。

ややこしい話はスルーしましょう(笑)。とにかく、この楽器のおかげで、曲の中に出てきた低いソの音が演奏できたわけです。

単純に吹奏楽でよく使われているトランペットやクラリネットと同じような感覚で演奏できる移調楽器と考えてもいいです。

見た目の大きさは、アルトC管と大差はありません。特徴的なのは、左端のとんがり帽子のような出っ張りです。なんでこんな不思議なおもしろいカタチなんでしょうね。

 



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ウィスキー&ビター

ビターってお酒は、一般には、あまりなじみがないかも知れない。

これは「アンゴスチュラ・ビターズ」。香りが強烈なお酒で、カクテルに香り付けで使われるお酒。

だから、香りを楽しむウィスキーと合わせるという発想は、出てこなかった。

ビターには、ドライジン、ウォッカと合わせるのが定番です。

あー、でも、ウィスキー&ビターって、飲んでみると、ありかもーって思ってしまった。

ウィスキーって、もともと喉越しの香りだったんだなぁ。ビターはビターの香りとして残っていて、喉越しの香りは、ウィスキーそのものです。

香りの質はかなり変わります。このあたりウィスキー好きな人には、許せないレベルかもー。

でも、あえてそこを楽しんでいます。

おいしいです。

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老いをあきらめない

人は誰でも老いていくし、いつかは死ぬ。

そのことを、どうして「崖っぷち」だと思わないといけないんだろう。

ぼくは、そう考える人に、なんだか違和感を感じる。

「もうこの歳になったら、先はない。」って、70歳代の人が言う。

57歳のぼくも、明日死ぬかも知れないのは同じって、ぼくは思うんだ。

むしろ、年齢を重ねれば、その分一日一日がどんどん価値があるって思えたらいいのに。

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できることは減っていくし、できないことは増えていく。

いいじゃん、べつに。

もともと、100できてたわけじゃないし(ぼくは!)。

50が30になったって、残り70は、他の人を生かせるって思ったらいいと思うんだ。

ぼくなんか、100は無理として、自分では80はできてたと勘違いしてたんだから。

本当は、ずっと人に助けられていて、その分が110くらいに思われていたんだけど、もともとが30だったって気づいたんだから。

できるとか、できないとか、できなくなるとか、衰えるとか、あんまり意味ないかもって思う。

生きてるだけで、できることのカタマリなんだ。無理にそう思わなくてもいい。それがただ事実なんだから。

あとは、それをどう自分で知るか、だな。

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今できることを、今やる。

人は、誰でも一度にひとつのことしかできない。

やろうと思うことをすべてやるためには、どうしても何かを後回しにすることがある。

そんなとき、ぼくは、やらなきゃ、こなさなきゃって思ってた。

常に何か後回しにして、それでも、やることを増やしていたと思う。

年齢を重ねれば、できることはどんどん少なくなる。

ひぃひぃ、ぜぃぜぃ、そういいながら、でもこなしてた。

まだできる。こんなこともできる。そうやって自分を励ましていたと思う。

でも、そうやって、本当にやんなきゃいけないことも後回しにしちゃってたと思う。

後回しにするには、常に順序や、理由が必要になる。

本当にやんなきゃいけないことでも、理由をつけて後回しにしてしまう。

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あほです。

気づけばいい。

「ぼくは、一度にひとつのことしかできない。」そう、気づけばいい。

どっちみち、同じひとつのことをやるのなら、意味のあることをやればいいだけ。

今できることで、意味のあること。それこそがやるべきこと。

あとはそもそもやんなくていいんだから、後回しって思わなくていい。

後回しにするには、理由が必要になるから。理由なんてなくていい。

はー。そうか。そうだったんだ。

今できる、ひとつのこと。意味のあることを。

今、やる。それだけ。デシタ。

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今感じていることを、声に出す。

直接感覚で感じることは、わかります。声に出ます。

「痛い!」

「ハラヘッタ。」

「トイレ行きたい〜。」

理屈で考えると、感覚を忘れていることがあります。

何かに夢中になると、おなかすいてたのを忘れるみたいに。

どうしようかな〜っと、迷っていると、今度は忘れるのではなく、感覚を抑えていることがあります。

「おなかが痛いけど、気のせいにしておこう。」

「おなか空いたけど、我慢しようかなぁ。」

「おしっこ漏れそうだけど、ハズカシイなぁ。」

それも度が過ぎると、自制が始まります。そうなると、感覚を否定することになります。

「こんなことでお腹が痛くなるハズがない!」

「朝トースト1枚食べたし、食べなくてもダイジョウブ。」

「トイレに行きたくなるなんて。今日はもう水を飲んじゃだめ。」

この例は、極端かも知れないけど、感覚って、だんだん見えなくなることがある。

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見えてるハズなんだけど、ごまかしてるってやつ。

自分の感覚を否定していたのが、他の人のせいになると、これはヤバイ。

そうなる前に、

自分に言う。声に出して言う。今感じたことを言う。

誰かに言う。声に出して言う。こんなふうに感じたんだけど。

言える。言おう。そうしようと思う。

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2つの夜のライブ2《Nagi MOCA》

上質なアート作品は、心を豊かにしてくれる。

音楽の場合は、ライブがいいな。心が落ち着き、やわらぐ感じがする。

そう思えるライブに、この日も行くことができた。

2018年6月10日(日)夜も雨だった。梅雨の雨で、静かな雨だ。

智頭から国道53号線を走り、峠を越えると岡山県奈義町で、ここに奈義町現代美術館(Nagi MOCA)がある。

これまでも53号線を通るたびに看板は目にしていたが、行くのは初めてだった。

信号のある交差点を右折して、駐車場に少し迷って筒のような建物の横を一度通り過ぎた。

引き返して、何台かクルマが停まっている場所に「ここかな?」と見当をつけて、クルマを停め、建物を見ると、商工会議所の看板があった。隣には、部屋の明かりの中に書棚が見えて、図書館らしい建物がある。先程見た筒状の建築物の方に近づくと、ようやく「Nagi MOCA」の看板が見えて、ここでよかったんだとわかる。

この日は、ここでミュージアム・ナイトライブがあり、新進気鋭のアンサンブル・ジャガーというヴァイオリンとチェロの2人のユニットの演奏を聞くことができた。

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ミュージアム×ナイト奈義MOCA 2018
ステージとオブジェのある空間から、入り口方向を見た。

打ちっぱなしのコンクリートで囲まれた空間。通路を除いて、大きな丸い石が敷き詰められたスペースに、ワイヤーの曲線で作られたシンプルなオブジェが石畳から上に何本も伸びて、空を飛ぶ生きものの軌跡を描くように輪を作っていた。その中央奥に小さな半畳ほどの台座が2つの島のように置かれていて、その一つには、譜面台だけが、もう一つには、チェロと椅子と譜面台が薄明かりの中で開演を待っていた。

当然のことながら、音響はよく響く。

「クルマのジャガーでもなく、動物のジャガーでもありません。」

MCでヴァイオリンの長沢拓己さんが言う。チェロは江島直之さん。二人とも若いけれど、各地で精力的に演奏活動をしているようだ。曲目はかなりマニアックな選曲で、もうぼくは、ほとんど題名も覚えていない。それでも、二人ともその会場の独特の雰囲気を楽しんでいるのがわかったし、ぼくも聞いていて楽しかった。

「ジャガーは、岡山弁のじゃがぁ、です。」(笑)

鋭いバイオリンのアクセントも、重厚なチェロのソロも、空間の響きによって、元からそんな音だったと感じられるくらいに嫌味のない音の味付けで聞くことができた。

先日の沢庵寺のジャズ演奏でも「七つの子」「浜辺の歌」日本の歌の良さが光っていた。偶然か、この日も、「城ヶ島の雨」「椰子の実」「はつ恋」それから、黛敏郎作曲の「文楽」チェロ独奏の迫力が印象に残った。

いやー、音楽って、ほんっと、ええもんじゃがぁ!

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2つの夜のライブ1《沢庵寺》

上質なアート作品は、心を豊かにしてくれる。

音楽の場合は、ライブがいいな。心が落ち着き、やわらぐ感じがする。

そう思えるライブに、久しぶりに行ってきた。

2018年6月8日金曜日の夜、Apon(アポン)の3人で雨の中クルマを走らせ、出石に行った。

一般社団法人ワンノート豊岡主催の宗鏡寺(すきょうじ=別名「沢庵寺」)でのパン・パシフィック・ジャズ・アンサンブルの演奏を聞くために。

演奏開始から少し遅れて到着すると、夜の闇の中にテナー・サックスの音が柔らかく響いていた。

初めて行ったお寺の夜の庭も本堂も美しく、とても素晴らしかった。

何より、演奏者をはじめ、来られている皆さんの表情がとても穏やかで柔らかく、ステージが背にしているお堂の奥にある仏像も、覗いてみると少し微笑んでいるように見える。

モリアオガエルなのか、カジカなのか、夜の闇の中で時おり、カエルがリズムを刻むように一斉にひとしきり歌い、休む。

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途中、休憩があり、おもてなしの、おつまみの皿が回ってきた。唐揚げやくるみ、アーモンドに混じって、沢庵漬けがある。

来るときにちらっと見えた「沢庵寺」の文字の意味がやっとわかる。

ここは、沢庵漬けが生まれた寺なのだった。この沢庵が小粒で、ポリポリ歯ごたえがあって、滋養があり、いい塩梅の味加減でうまい。

パン・パシフィック・ジャズ・アンサンブルは、北欧のニクラス・ウインターさん(g)とエミール・ヘスさん(t.sax)の二人のユニットで、この日は、吉岡泰祐さん(b)、三浦敦子さん(p)の4人での演奏だった。

ベースの吉岡さんが進行役だったんだけど、ニクラスさんがフィンランド出身、エミールさんがデンマーク出身で、北欧の二人が英語で話すのを、うまく伝えられず、そこに英語の堪能な方が偶然客席にいて、通訳を買って出てくれて、すっかりそのお客様の通訳を期待する雰囲気に(笑)。

どうやって、打ち合わせやリハーサルをしたのかなぁ。

終演後、すっかり暗くなった庭に残っていたホタルが、かすかな光を明滅させていた。

いやー。音楽って、ほんと、いいもんですねー。(水野晴郎調に)

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佐彌乃兵主(さみのひょうす)神社

なんかわかんないけど突然「あ。行かなきゃっ。」って思って、ぼくはどこかの神社に行くことがある。

今日は、クルマをコンビニの駐車場にとめていたときに、ふと「あ。今なら行ける。」と思いついた。

そういうインスピレーションって、もしかしたら何か意味があるのかなぁと思う。

実際にこれまで行こうと思いながら、そこに行けなかったわけだし、何か呼ばれたのかも知れないと思うと、行けるなら行こうと思う。

鳥居
鳥取県岩美町河崎にある、佐彌乃兵主神社、その鳥居。

今日、行ったのは、岩美町の河崎というところにある佐彌乃兵主神社、これで(さみのひょうすじんじゃ)と読む。

ここに神社があるというのは、前から知ってた。

近くまでクルマで入れないことはないが、やっと軽トラが通れるくらいの幅のガードレールのないコンクリート道だ。

無理をせず、近くにある道の駅「きなんせ岩美」にクルマを停めて、歩いていった。

神社の川向うには、美取神社があるし、1.2kmくらい離れたところに、同じ兵主神社である許野乃兵主神社(こののひょうすじんじゃ)っていうのがある。

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ここからは、ぼくの空想の世界・・・。

ここは佐彌屋敷(さみやしき)って地名らしいけど、こんな近くに別の神社がいくつもあるのは不自然。

神社が建立されたのは1109年(天仁2年)という年らしい。

ぼくが「佐」の字で思い浮かぶのは、佐用町というのが、兵庫県にある。最近も大きな水害があったけど、当時も大きな水害があったのかも知れない。それで、佐用町かその周辺から地形の似ていた蒲生川河川に神社が移されたとは考えられないだろうか。

それは、もちろん、度重なる水害を鎮めるため・・・。祀られたのは、天照大神だった。こんな空想、想像はどうだろう。

本当のところは、わからないけど、空想するのも、ありかな。

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境内社
拝殿の右手にある境内社。実のところ、この境内社にお参りするのが今回の目的だったような気がする。

稲田姫邂逅記(前編)〜八重垣神社〜
稲田姫邂逅期(後編)〜たたらの灯オープニングコンサート《番外編》〜
猿の神社
こうげの賀茂神社
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酉年(とりどし)にぴったりの神社
御湯神社での縁。「朗読と音楽 奏で」
あらきまたえもん
箱に入っていた姫

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ムダな努力は報われない

ぼくは、ものごころついた頃から、「できる」「できない」の価値判断で生きてきたように思います。

「できる」ほうが「優れている」。

だから、人より、もっと、いろんなことを、高度に「できる」ことを目指していたわけです。

それが、当たり前だと思っていました。

もっと、できるようになりたい。優れていると、人に認められたい、評価されたいという「認められたい病」だったわけです。

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この考え方には、はっきりした落とし穴があります。

「できない」ほうが「劣っている」という思考が同時にあるわけです。その思考が自分の中にあるとは思っていません。無意識が、その思考を隠しています。

ものごとにはすべて裏表があるわけですから、隠しているつもりでも、人には見えています。

そういう意味では、ぼくは、サイッテーなやつでした。今は、それが、わかります。

自分自身、できないことがあると、自分を恥ずかしく思っていたし、そう思われたくない不安をずっと抱えていました。

当たり前のことですが、できる、できないというのは、「状態」に過ぎません。ニンゲンは空を飛べません。劣っているわけではなく、ただ飛べないという状態があるだけです。

「努力はいつか必ず報われる」と信じている人もいると思いますが、そんなことはないと思います。どんなに努力してもニンゲンは空を飛べません。ぼくはぼくである限り、ぼく以外の人になることはできませんでした。

いやいや頑張ること。
妄信的に行うこと。
人のためだけにやること。
流れにさからうこと。

これは、ぜんぶ、ムダな努力です。これに「あなたのために」というアピールが加わると、偽善です。もっと言えば、それはストーカー的な犯罪であり、暴力です。

それでも、こんなに頑張ってるのに、努力してるのにって思っていたわけです。何を見ていたんだろうか。

いやいや頑張ろうとしない。
盲信しない。
自分をまず見ること。
人と、流れを見ること。

できる、できないではなくて、何を感じるか。楽しいか、つまんないか。それをまず自分自身で感じられるか、人に伝えられるか、人がどう感じているかに意識を向けられるか。その上で、人にどう伝えるか。

言葉にすれば、なんだか、アタリマエのこと。

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自分とコミュニケーションする

ぼくは、ずっと、自分で恥ずかしがり屋の口下手で、コミュニケーションが苦手だと思い込んでいた。

このところ、自分自身を振り返る、見つめるということを考えていて、それって、人に対してじゃなくて、自分自身に対して、コミュニケートしていなかったんじゃないかって思った。

人に合わせて、何かしようとすると、ほら、例えば、下心満載の20代だった頃、好きな女性と話すことがうまくできなかったりする。

それって、その人に一所懸命合わせようとしていて、相手はおろか、自分自身をも見ていないからだったんだなとやっと気付く。

20代の女性に合わせられるアイテムって、男の自分がそんなに持ってるはずないもの。

せいぜい、映画とか、本とか、動物とか、遊園地とか、美味しいものとか、そういうもので合わせようとしてしまって、堅苦しくなって、別れてしまってた。何度も何度も。

「ぼくは、こう思う。」「こんなふうに感じたんだけど、どうかな。」

そんなふうに話をしないわけじゃないけど、合わせようと必死で焦ってると、それが見えない。

そうだったんだ。ぼくは、自分とコミュニケートをすることができていなかったし、その視点が抜け落ちてしまうことが、今の今までよくあったんだ。

それが相手を退屈にさせていたし、傷つけて、傷つけあったりもしていたんだ。

なんてこった。

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自分自身とコミュニケートできれば、何も怖がらなくていい。

そして、世界はそこにある。世界ともコミュニケートできる。

そう考えれば楽しい。

ぜひ、そうありたい。