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目薬を味わう、しあわせ。

目が健康な人が「目薬を味わう。」なんてことは、ないわけですよ。

味わう。目薬をさすと、本当に目が「うまい!」って言っているように感じるくらい気持ちいいわけです。

これは、しあわせだと思うんです。

ふだんは、コンタクトレンズを目にはめているんですが、裸眼だったり、メガネをかけているときには感じないクリアな視界がどーっんと、広がるわけです。

これも、感じなければそれまでなんですが、しあわせなんです。

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どっかのコーヒーのコマーシャル(ダバダー♪)じゃないけど、「違いがわかる。」ってことがしあわせなんだと思うんですね。

じゃあ、その「違い」ってなんだってことですよね。

ぼくは、違いがあるって、なんだか特別なことのように思っていたわけなんですけど、それは幻想だったですね。

違いは、いつも、どこにでも、当たり前にあるわけです。

あったりまぅえ〜に、あるわけどぅえ〜っす!!

・・・はい。ふつうに言いますね。

違いはあります。

むしろ、「同じ」と思っていることが錯覚だったのです。

ふかーい話に突入しそうなんで、ふかーい話はそれが得意な人に任せるとして、違いが感じられるというのは、割と自分で「足りない」とか、「できない」「劣っている」とか思っているところに意味があったような気がします。

社会が決めている基準って、単にひとつのものさしでしかなくて、そのものさしだけで物事を見ると「しあわせ」そのものを見逃すことがあるかも!ってことです。

目薬はおいしい、そういう話でした!

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ただそのままを活かして、生きること

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幽霊とか、オバケとか。

ぼく、割と、見えます。

自分では、意味はわかりません。

どうってことはないんです。

小さい頃から見慣れているので。

でも、それを言うと、怖がりますね。

とくに子どもは。

なので、なるべく黙っています。

要は、波動なんだと思います。

波動、波長があったときに、見える。

人は、ふっと寒くなったり、急にどーんと気分が落ち込んだりするときってあると思います。

幽霊やオバケは普通にいます。

みんな波動を残して死ぬんですから。

いるのが、当たり前です。

あとは、自分自身なんです。

そこに合う波動、波長があるっていうのは、実はあんまり良くない。

でもたまたま敏感な人が、幽霊やオバケを実際に見てしまう。

幽霊やオバケが見えるっていうのは、自分自身の波動の状態が見えるということ。

なんだかんだいって、怖いのは、生きてる人間なんで、自分自身の波動を見せてくれる存在には、ぼくは感謝しかありません。

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物欲が剥がれ落ちていき、、、

ぼくは以前は、便利なモノ、高級そうなモノ、先端を感じさせるモノ、そういうモノたちに割とホイホイと飛びつく方でした。

その結果、使わない、必要のないものもたくさん身の回りに残ることになりました。

電気屋さんに行くと、以前は宝の山のように思えたのに、今日久しぶりに行くと、まるで異空間のように感じます。

何を見ても、まったく興味がわきません。

それはまるで、行くつもりのなかった遊園地を散歩しているような気分でした。

まったくつまらないわけではないんだけど、とにかく異空間、そんな感じなんです。

家に帰ると、最近は、不用品だと思うものは割とさっと捨てています。

どんどん身の回りからモノが減っていきます。

そうすると、必要なモノだけが残る。そんな感じになります。

濁っていた池の水が減っていって、だんだんと透明になっていって、泳いでいた魚が見えてきた、そんなイメージです。

なんといらないモノに囲まれていたんでしょう。

どんどん快適になっていきます。

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できる意識<できない意識

意識が現実を作る。

そう思える人も、そう思えない人も、それが真実です。

その中でも、できる意識より、できない意識の方が強力です。

「できる。」と、なかなか思えなくても、「できない。」というのは簡単に思えてしまう。

その結果、できるはずのこともできない。

で、意識が働くわけです。下記は、これまでの、ぼくの場合ですよ。

「やれなくはない。」
「できるはず。」
「なんで、できないんだろう。」
「こうしたら、ああしたら、どーたらこーたら。」

で、その意識が、ますます確実にできない現実を作ってきたわけです。

できない意識の方が強力なんですから、意識すればするほど、できないわけです。

呼吸できない人がいますか。
空を飛べる人がいますか。

もともと、放っていても、できることはできるし、できないことはできない。

それなら、意識を捨てるのが一番効果的です。

そのまま、呼吸できる自分、空を飛べない自分を認めます。
できることはできて、できないことはできない自分を認めます。

できた。できなかった。は、結果です。

結果にとらわれず、自分を認めるのです。

というようなことを、今、ぼくは自分に問いかけているところです。

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自信って、どこにあるの?

自信がない。
不安だ。

漠然と。なんとなく・・・。

自信がない。何が?・・・答えられない。
不安。何が?・・・答えられない。

だって出来てないから。
ダッテ。デモ。ダカラ。

自信って、成功体験を積み重ねることだと思っていた。
知識を得て、できることを増やすことだと思っていた。

自信て、自分を信じること。

何かをして得られることじゃなかった。
今すぐできること、だった。

自分で信じられる自分を持てばいい。
時間も他人の評価もいらなかった。

自信がないということは、人の評価を待つことだった。
人に委ねることであり、自分をおとしめることだった。

自信はできるのでも、作るのでもない。

ここにあることを信じること。

それだけ。

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聖神社にて

音楽のパートナーTさんが先日新しい財布を購入されました。ぼくはというと、今持っているDakotaの黒財布が気に入っていたので、新しく購入するつもりはなかったのです。

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感想(30件)

この財布は、使い始めて2年くらいで、なじんで味が出始めたころですよ。

それが、どうしたわけか、ぼくに偶然の出会いがあって、次に買うことになる財布と出会ってしまったわけです。

わかりにくい話ですが「これは今、この財布を買っておくべきなんだな。」と思う出来事があったというわけです。

いわゆる「縁」ってやつです。

人は、縁によって生かされているわけです。その縁を活かすかどうかは、その時のその人の判断に任されます。

縁によって、その後どうなるのかが変わります。人は「運命」と言ったりもしますが。

この財布、高いし、大きいし、必要ないし・・・。と考えるのが、思考のブロックです。そうやって考え始めると、縁を感じたその時の感覚はもう忘れているわけです。

ぼくがその財布と出会ったことを知ったTさんたちが、その縁を後押ししてくれました。

そうして、ぼくは、縁を感じた感覚を思い出して、買うことにしたわけです。

これがそうなんですけど、ベルトの模様です。

メーカーのロゴの入った、チェーン・アクセサリーがついています。

Tさんが中にお塩をひとつまみ紙に包んで入れてくれました。

そして、ぼくも少しおまじないをすることにしました。

昨日買ったばかりの、この財布を鳥取市の聖神社にお連れしました。

黄色いカエルの布で包んで、さらにその上に、黄色いアンダラさんを乗せます。

こうして、聖神社にお参りしてきました。

聖神社だけではなく、よくあちこちの神社にはお参りします。

素敵な出会いにただ、感謝です。

今はまだ、ただ持ち歩いているだけです。もう少し、オマジナイをして、11月8日新月の日から使い始めることにします。

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チック・コリアin松江

今日(2018年10月20日)は、娘と松江まで行ってきました。

自宅から2時間ちょっとかかります。遠いですね。

せっかくなので、早めに行って、島根県立美術館にも寄ってきました。

美術館では、松平不昧(ふまい)公のコレクションの数々と常設展を見てきました。

昨日が雨でしたので、天候を心配していましたが、晴れてとてもいい天気でした。

今日のお目当ては、島根県民会館大ホールでの、チック・コリアのコンサートでした。

ピアノのウィングは最大に開いていて、高い位置に、2本のマイクが背の高いブームスタンドでセットされていました。

英語でご本人が話す内容は半分くらいしか理解できていないので、確かではないのですが、今回のツアーは録音して、CD化されるようです。なので、そのマイクは録音用だけで、客席から聞こえるピアノの音は、ほとんどが生音だけでした。

1曲目はモーツァルトとガーシュインが融合したような音楽でした。

二人の作曲家からインスピレーションを得て、インプロヴァイズするみたいなことを言っていたと思います。それがコンポーズすることだと。勝手な翻訳で、違うかもしれません。

チック・コリアは、とてもラフなスタイルでした。ナイキのスニーカーでしたし。

とにかく、音がきれい。音楽を聴きながら、清流が流れているように感じます。音のつぶつぶが光っている、そんな感じです。

2部ではピアノの影に隠してあった椅子を自ら、ピアノのそばに置いて、「What is this?」といい、話し始めます。

絵を描く人は、「肖像画」を描く。
写真家はポートレートを撮ります。
音楽で、同じようなことをやってみたい。
たぶんそんなことを言っておられたと思います。

客席に呼びかけて、手を上げた年配の男性がまずステージに上がりました。

ピアノのそばに顔が向き合う形で座ってもらい、その人をピアノごしに見るようにして、即興演奏が始まりました。

即興で描く、音楽の肖像画です。美しいけれど、少し難解な感じがしました。

今度は若い女性がいいと、手を上げてもらいます。

さっきよりたくさんの方の手が上がりました。

あなたは違う。と言われた方がおられました。若くなかったのか、男性だったのかは、よく見えませんでした。

2人目は二十歳かひょっとしたら、もう少し若いような細身の女性でした。

確かに奏でる音楽が違っていました。

透明感に満ちていて、非常に美しいシンプルなメロディでした。

今度は、連弾で共演したいといいました。なんて無茶なことを言うんだろうと思ってました。
それでも、ピアノの弾ける人に手を挙げてもらい、2人の男性がかわるがわるステージに上がりました。

それぞれ、エキサイティングな演奏でした。面白かった。すごい。

子どもたちのための小品を書いたというようなことを言い、全部はやらない、20曲のうちのたった(オンリー)3曲を演奏するといいつつ、結局12曲演奏しました。

1曲1曲、恥ずかしそうに指で「何曲目」というサインを作りながら。その度、客席も温かいかすかなどよめき。うん、いいんだよ、好きにしたらいいんだよ、という雰囲気。

アンコールは、ニューバージョンの「スペイン」でした。ロドリーゴのアランフェスのテーマが延々と続いた後、印象的な手拍子のあるフレーズが始まり、最後はスタンドオベーションでした。

いやー、楽しかった。

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お金を洗ってみた。

よく、神社に行くので、いつも小銭を持つようにはしているんですが、昨日は倉吉の賀茂神社の手水のところでお金を洗ってみたら、なんか楽しかったんですね。清々しいというか。

それで、今日は、どこの神社に行くかはわかりませんが、朝、お金を洗ってみたんです。

その写真がこれなんですが、すごく輝いたんですね。これはもっと楽しいじゃないですか。

キラキラ、わくわくの写真です。

お金を洗ったことで、単なる数字のついたモノじゃなくて、意味のあるお金に変わった瞬間です。

これが伝わらないわけがない。

このお金を神様に届けるのが楽しみな、朝です。

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シンプルに生きる。

生きるって、もともとシンプルなこと、なんだと思う。

食って寝て、闘って奪われて、傷ついて慰めあって。

それで、死ぬ命もあれば、生きながらえる命もある。

運がいいとか、悪いとかっていうのも、その人がそう感じるから、そうなのであって、いいか悪いかさえ存在しない。

あるのは、縁。

それを、つなぐのも、つながないのも、自由。

常に意思を持ち、責任を持ち、流されないこと。

意思とか、責任とかって硬く考えると、難しいって思うんだけど、それもシンプル。

当たり前に、今を見つめること。

できないと思った瞬間に「できない。」が目の前に現れるだけ。

できないを選んでいるのも自分だということに、ぼくは以前は気が付かなかった。

ただ、生きる。

シンプルに生きる。

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ただそのままを活かして、生きること
私という現象を生きる
あと100年、生きる。
心を動かすもの〜デモでも鉄砲でもなく〜

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心を動かすもの~デモでも鉄砲でもなく~

この前、誰かに「趣味は?」と聞かれたんだけど、音楽を“なりわい”にしている今、「あれ?趣味がないな。」と思う。

ぼーっとすることと、お酒と、美術鑑賞かなぁ。それって趣味、かなぁ。

酒は、飲める人なら、誰でも好きだよね。趣味、じゃないよね。

以前は250CCのオフロードバイクに乗ってた。

行く先々で、イタリア製のオフロードブーツのまま、山に登ったり、

あと、10年くらい前まで市民マラソン大会で5キロ、10キロを走ったりしてた。

今は「散歩」程度だなぁ。それも数十分。時間の空いた時に。健康法みたいなもんだね。これって、趣味じゃない。

してみると、やっぱり美術鑑賞かな。

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鳥取県立博物館ってとこで、今「土方稲嶺(ひじかたとうれい)」の日本画展をやってるんだ。

その話、あちこちでするんだけど、反応が薄いね。

水墨画とか、古い日本画に興味がないみたい。

ひじかたっていうと、としぞうですか。って聞かれる。

あ、まー、そうね。そうなるよね。だわねぇ。

稲嶺のお師匠さんの宋紫石(そうしせき)さんの名前は知らなくても、当時、親交があったのが、円山応挙に谷文晁となると、見方が違ってくるわなぁ。

近所の人でもさ、なんか有名な人と知り合いってだけで、へえーってなったりしない?

アーンド、伊藤若冲と同じ時代に京都で絵師をやっていたということも、かなりのインパクトだわね。

そうなのよ。人って、名前、ネームバリューに弱いんだね。

で。

えっと。この人の絵、大きな屏風絵もたくさん描いていますが、掛け軸などは、はっきり言って、かなり地味です。

間違いなく、すごいんですよ。

このすごさに派手さがない。

薄墨で濃淡を描いて奥行きを出すのが得意です。

今のマンガでスクリーントーンってあるでしょう。ああいう感じです。

何種類ものスクリーントーンを使い分けて、立体感を出すんです。

それから、今回の展示の目玉はなんといっても、襖絵です。

そのまま部屋の中で襖絵に囲まれて、部屋を移動しているような、そういう展示方法です。

やっぱり薄い絵です。

でも、ぼくは、落ち着くんです。

そして、この襖絵。もともとは、お寺でボロボロに虫食いになって、汚れて変色していたものなんです。

それを執念とも言えるくらいのち密さ、丁寧さで修復をしているわけです。

ここ、なんですね。心を動かされた人がいて、修復された絵が、見事によみがえっていました。

空間も時間もそこには存在しないかのようでした。

稲嶺自身、名があること、無名であること、どちらにもこだわっていなかったんだと思う。

たくさんのお弟子さんを育てられたことでも後年有名になっています。

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デモや鉄砲では、人は動かない。

何が、どう伝わるのかが、時間も空間も大きく隔てて、意味をもつのだなと実感しました。