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確かにある「気配」という存在

 それがもし、映像として見えたなら「オバケ」とか「幽霊」とかになるんだろうか。今日もそんな「気配」を感じる瞬間があった。

 今日の晴れた午後。ある建物の2階。入口の扉には表面が凸凹したガラスがはめ込まれていて、向こうの光が透けて見える。ふとした瞬間にその向こうの光の中に人影が動いたような「気配」がした。そこはすぐ階段があって、さらに下には鉄の扉がある。もちろん、そのあと確認はしたが、誰もいない。いるはずがない。しばらくするとその「気配」は部屋の中に入ってきて、ゆっくり移動していった。その部屋の中には私以外に4人の人がいたが、誰もその「気配」を感じてはいない。

 見えない幽霊を「見た」とは言わない。それは確かに感じたけれど「気配」でしかなかった。きっと、ほんとちょっとした光のゆらぎだったのだろう。それがたまたまぼくが座った場所だけに感じられたのだ。

 以前、ある会でたまたま全盲の方と同席することがあって、その人が言った。「今日は15、6人くらいだな。」って。100人くらいはゆうに入れる会場だった。足音を数えていたのだろうか。見渡すと確かにそこには10数人の人がいた。「わかるんですか。」と僕は尋ねた。「うん。割と正確に。」足音や話し声、ドアの開け閉めの回数を数えているわけではない、とも言った。もっと人が多くてもあまり外すことはないそうだ。百人、千人規模だと分らないかもしれないが、もしかしたらそれでもわかるのかもしれない。その人はいつも、まるでぼくが見えているかのように、ぼくとまっすぐ向き合って話す。

 盲目の人がすべてそうだとは限らない。でも、思い出すと「気配」のする方をまっすぐ見る人は多い。

 人は見えるものに頼ろうとする。データがあれば、データを信用する。ことがらを理性的に判断しようとする。それもある種の知恵だと思う。その方が間違えにくいし、知識があれば、判断も早い。しかし、そのデータが間違っていたら、その知識が間違っていたら、そう考えたらどうなるだろう。

 「気配」というのはなんだろうか。ほんのちょっとした変化。光だったり、音だったり、においだったり、温度だったりする。きっと、数値では計れないような変化、データに残らないような変化、なのではないだろうか。

 自然界の生物はみな「気配」をただ感じて、見逃さないだけでなく、それを感じている自分自身を信じて、人間がデータに頼るよりも確実に判断をするのではないだろうか。

 現代の人間にも、ぼくにも今すぐできることがある。確かにある「気配」という存在、それを見逃さないこと。それを感じている自分を見ることだ。データや知識はそれから参考にしても遅くはないのだろう。



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