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新春、白鳥の群れと出会う

2018年新春、1月5日朝、倉吉市を流れる天神川の下流、国道9号線から遠くに見える大山をながめながらクルマを市内に向けて川伝いを走り出すと、白鳥の姿が見えた。

土手の少し広いところにクルマを停め、降りてみると、ほんの数羽かと思われた白鳥が群れで羽を休めていた。

近づこうとすると、既に警戒モードの数羽が脚を伸ばし、反対方向を向いている。

それでも、鳥と鳥との会話をするかのような鳴き声も映像の中には収められている。

いい年になりそうな予感です。

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私という現象を生きる

 いつ頃というと、2年くらい前は確実にそうだった。ぼくは、それまでずっと長い間、自分には何が出来るのだろうかとか、もっといろいろなことがちゃんと出来るようにとか。というようなことを、常にぐるぐると考えていたように思う。

 人と比べると、割とすぐになんでも出来た方だと思う。それなりに評価もされた。器用貧乏だったかも知れないが、それはそれで、自信にもなった。

 しかし、そうそういつもうまくはいかない。失敗もするし、批判もされ、叩かれる。出来るはずなのにと思うし、どうしたらわかってもらえるのだろうと更にぐるぐると考えを重ね、がんばってきた。

 きっかけについては、長くなるのでここでは書かないが、こうしたそれまでの考えを捨てた。ある日から、ここにある、そのままの自分を見つめてみようと思うようになったのだ。

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 最初は「自分を見つめる。」ということがどういうことかもわからない。「どうすればいいか。」方法を考えているうちはうまくいかなかった。ただ「自分を見つめる。」とだけ念ずるだけの毎日だったと思う。

 今思うことは、ここにあるのはすべて現象に過ぎないということ。

 このぼく自身も現象なのだし、反応なのだと。

 ぼくが何かしようと思うのではなく、今どんな現象や反応が起きているのか、その現象をどう捉えるのか、その意味を考えるようになった。

 ぼくが自分で感じられるこのカラダは、単にぼくのものではなく、ぼくと世界をつなぐ媒体だ。成熟したり、病気になったり、老いたりすることは、単に状態の変化に過ぎない。57歳の肉体は57年間生存しないと得られない。このカラダが持っている価値や意味は、今ここに、既にある。

 思い起こせば、これまでも、何かしようとしてがんばって出来たのではなかったのだ。このカラダにその時々に価値や意味があったから、結果として、出来ることがあったのだ。

 ぼくは、ぼくというカラダを持って、この現象を、価値を意味を見つめて生きようと思う。

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目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

 つい最近、人類はかつてスーパーマンだったという記事を書いた。上空からしか形がわからないような巨大な構造物を作ったり、巨石を積み上げて、ひとつふたつならいざしらず、まるで日常の仕事のように年間400個もの古墳を作ったりした人類。

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 どう考えても、この地球には、ある時期、それも1万年くらいのスケールの時間の長さで、スーパーマンが存在していたのだ。これだけさまざまな証拠が見つかっているにもかかわらず、科学者が認めようとしないのは、当時の人類は現代の人々より劣っていたと考えているからだ。

NEVERまとめ-人類の歴史よりも古い『1万年前』に作られた遺跡まとめ

 現代人は進化しているのではない。自らが作り上げた文明によって、どんどん退化している。そしておそらく、数万年前にも経験した人類の滅亡を近い将来、経験することになるだろう。

 なぜ、人類は退化していると考えるのか。どこがどう退化しているのか。その退化は何がきっかけで始まったのか。

 まず、上空からしか形がわからないような巨大な構造物がどうして作られたのか。ナスカの地上絵もそうだし、日本の古墳の多くもそうだ。

 「当時の人類は、空を飛ぶことができたのだ。」と言いたいところだが、空を飛んだ証拠がまるでない。ただはっきり言えることは、当時の人類は、その広大な空間を認識する能力が非常に高かったのだろうし、もしかしたら、ある種の鳥類と交信ができる能力者がいたのではないだろうか。そう考えると、無理はないだろう。

 古墳は、祭祀を行う集会所であり、生活の場のひとつだったと考える。石棺があるために現代の人々はあれを墓だと考えているが、あれは、石を運ぶの中でも書いたが、最終的に施設が役目を終えるときに、取り壊すのではなく、「復活」を願い、最も影響を与えた人物の遺体を安置して扉を閉ざしたのではないだろうか。

 現代人が忘れ去った、その結果退化してしまった空間認識能力、ことばによらない、動物とも交わすことができた交信能力、生死の概念を超えた生活様式など。それらの多くは、人類が言語、文字を操るようになると、急速に消えてしまったのではないだろうか。つまり、文字の発明、その後の文明こそが人類の退化を加速した原因なのではないだろうか。

 さらに言えば、人と人とのコミュニケーション能力も変質したのだと思う。現代の人々の特徴の多くは、コミュニケーションに「感情」が多く作用する。年齢、肩書、性別、見た目の印象などが意識下、無意識下にイメージを作り上げ、そのイメージに対する感情をもとにコミュニケーションが始まる。その結果、いとも簡単に現代人はイメージによって感情が左右され、だまされてしまう。

 人類が退化するにしたがい、争いごとが増えた。同じ頃、文字や言語が発達すると宗教が生まれる。そうした宗教家が共通して人類に伝えようとしているのは「目覚めよ!(Awake!)」ということではないだろうか。完全に失われているのではない、眠っている能力が人類にはあるのだと思う。

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第10回岩美現代美術展8月5日シンポジウム

 岩美現代美術展は、2017年8月5日〜21日まで旧岩美病院の「Studio652」で開催される、今年10年目を迎える現代美術のアート展です。詳しくは、岩美町HPお知らせ「第10回岩美現代美術展を開催します!」をごらんください。

 8月5日(土)には、シンポジウム「地域における現代美術の可能性」が開催され、実行委員会代表の小山勝之進氏の開会あいさつのあと、團紀彦氏の基調講演が行われた。

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 團氏の講演はたいへん興味深いものだった。開口一番「建築家というのは、アーティストに比べると、中途半端な存在だ。」と言われた。「建築物にはどうしても、イメージに制約が加わる。材質がどうか、強度がどうか、さまざまな条件をクリアしないと建築物は生まれない。」

 氏は、まず岩美町を訪れて「鎮守の森がありますか。」と町の担当者に尋ねたそうだ。そして、浦富の熊野神社を案内していただいたそうだ。

 なぜ「鎮守の森」か。スダジイなどの広葉樹の森、それも一種類の木ではなく、さまざまな種類の木が作る森があることが条件なのだそうだ。それは、人の手で育てる里山とは違う。その違いはなんだろうか。話が核心に触れる。

 氏が青山学院大学で、都市学の講義で学生に話されたのは、「たとえば、明治神宮の場合、神社の植生は100年設計で考えられているということだ。神社の周辺に木を植えるときは、『実のなる木はご遠慮下さい。花の咲く木もご遠慮下さい。』と言われるそうだ。花が咲き、実が実ると、道ができ、下草が育たない。ただし、木が一種類だと、病気になって枯れる。公園とは逆の発想で、人が入れないように森を作る。いわゆる里山は人の手が入った方が育つ。鎮守の森は、容易に人が入れない。」

 スライドでユーラシア大陸を上空から見た地形図が映し出され、中国とか、朝鮮半島、日本を上空から見ると、緑が多い。西に行くほど、茶色くなる。

 「アジアの都市の特徴は、都市と自然の境界がはっきりしないで、溶け込んでいる。逆にヨーロッパでは、都市と自然とは、はっきり区別がある。自然=無法地帯といっていいくらい、はっきりしている。こうして、ユーラシア地図を見ると、日本や中国には緑が多い。仏教も元は(色が茶色い=緑が少ない)インドから発祥しているし、哲学、宗教は、茶色い所から多く出ている。」

 氏の話は、共生とは何かにつながっていく。その上で「Symbiosis with Land 大地との共生」「Symbiosis with Others 他者との共生」「Symbiosis with Time 時間との共生」という3つの面を実例を挙げながら解説された。

 その中で特に興味深かったのは、「大地との共生」で話された、京都にあるスイミングプール(冬はスケートリンクになる)「京都アクリーナ」の設計例だった。元は平坦な土地に建築物を建てると、巨大なものになる。氏がその設計をシチューでたとえていたのも面白かったし、とてもわかりやすかった。その土地の土を運び出して、一つ一つの機能をシチューの具にたとえて配置する。そして、土を戻して、地下になる部分に機械室を作った。地形ごと設計したというものだった。

 もっと興味深い話は続くが、話は尽きない。書ききれないほどだ。

 氏が講演の最後に岩美町にヒントとして残してくれたのは、スペインのサン・セバスチャンにあるチリーダの自然と共生する作品群を紹介してくれたことだ。今回岩美町で大谷海岸に麒麟獅子のオブジェを作ったのも、そういうメッセージが込められているのだろうと思う。かつて以前岩美町でランドアート作品を作ったことがある大久保英治氏がこの岩美現代美術展に残してくれたメッセージにも通じるものだ。自然との共生、その可能性のある自然がここ岩美町には確かにある。

 講演のあとには、團紀彦氏、栩山孝氏、山本修司氏をパネラーに迎え、三浦努氏の進行でパネルディスカッションが行われた。

 パネルディスカッションの話の底流にも、冒頭の「鎮守の森」が流れているように感じた。自然にかなうものはないと。建築は自然を生かしたものだけが長く残る。長く残るからと言って、神社の狛犬をステンレスで作るわけにはいかない。美術館というものも、美術品が流出したり、売り買いできるようになってから作られたもので、最初の美術館が出来てからでもせいぜい200年くらいの歴史しかない。

 最後に今年町長を退くことが決まった榎本武利岩美町長のあいさつがあり、1時間延長という充実したシンポジウムが幕を閉じた。

 18時からは、会場を大谷海岸に移し、野外作品の紹介と、地元の麒麟獅子舞が演じられた。この日の司会は谷口尚美氏、暑い一日だったにもかかわらず、落ち着いた進行で時間の長さを忘れることができた。

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がたぴし

 ひゃっはー! 連日暑いですね。

 いかがお過ごしでしょうか。

 暑中お見舞い申し上げます。

 この暑いときに、九州はえらいことです・・・。

 鳥取県も昨年は中部で大きな地震がありましたが、災害はいつどこに起きるのか、全世界的な、地球的なと言いますか、気候の変動もあって、年々規模も回数も増えてきたように思います。

 明日は我が身かも知れません。

 被災された皆様の一日も早い復興を祈ります。

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 話は変わります。

 数年前にあるお坊さんに教えてもらったことがあります。

「その窓、戸が『がたぴし』言うでしょう。木枠で古いけん。この『がたぴし』言うのは、実は仏教用語なんよ。自分と他人とが、勝手にあっちだこっちだって言い合うと、噛み合わんでしょう。そんなときに『がたぴし』いう音がするだがなぁ。『我他彼此』と書いて、ものごとは自分のことだけじゃなしに、自分以外のもんも見んさいよ、いうことなんよ。」

 どうしてこの言葉を思い出したかというと、ふと『神の声を聞く』とはどういうことなのかと、歩きながら考えたことに始まります。

 神が今の自分を見たときに何を言うのだろう。何を教えてくれるのだろう。神社で手を合わせるときに耳を澄ませることがあります。

 神の声が聞こえたのか?

 いいえ。ぼくにはなーんも聞こえません。もし聞こえたとしたら、そんな気がするということだろうと思います。それは自分の心の声に過ぎません。

 結局のところ、自他ともにみつめることが必要なんだろうと思います。

 その感覚が開いていれば、自分の心の声も、他の声も聞こえるのかな。そのうち神の声も聞こえるのかな。

 修行や鍛錬、技術の積み重ねは、自他を見つめることで初めて意味を持つものだろうと思います。

 暑いけん、まぁ、ほどほどに(心の声)。

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ただそのままを活かして、生きること

 人間って、日常なんでもかんでも、「良い」「悪い」で多くのものごとを判断している。そうするもんだって思ってる。ぼくもそうだった。

 そもそも良いか悪いかっていう、この「善悪」ってなんだろう。

 小さな子どもの頃から、叱られたり、諭されたりしてきた。たまにほめられたりもして。そうやって繰り返し、叩き込まれてきた精神論だったりする。

 これって、時代の違いもあるだろうし、集団や地域、大まかなところは法律として国が作っているものなんだなって、薄々わかってきた。

 つまり社会や習慣が違うと、善悪も違ってくる。

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 ふと考えた。自然に善悪はあるのだろうかと。

 食べるために殺す。オス同士でケンカする。ただ生きるためであって、そこに善悪はない。

 人間の場合は、殺したらイケナイ。ケンカもダメよ〜。ダメダメ。肉や魚は食べるけどね。

 そこへ優劣なんかも加わって、出来のいい方がいい。一方で出来が悪いからダメとか。ラベルを貼って、結局社会が人を殺してる。

 もともと善悪って、社会の中でより多くの人を活かすための生きる智慧だったんだと思う。そして、社会の中でも殺し合いをしないため、生かし合うために宗教や思想が生まれたんだと思う。

 本当は殺そうが、ケンカしようが、その行為そのものは、善でも悪でもない。

 それぞれが相手のことを尊重する目を持った、それぞれのセンスを活かして生きる。あとで、結果として良かったな悪かったなって思えばいい。結果が出る前にイイダワルイダって考えなくてもいいんじゃないの。

 そうだな。最初にイイダワルイダを決めちゃった方が、相手のことも自分のことも深く考えなくて済むんだな。

 「こうしなさい。」「ハイ!」

 お兄ちゃんなんだから。男だから。見た目が怖いから。こんなことをする人だから。そうやってキメツケル。

 人を見た目で判断してはイケマセンよ。(←これも常套句)

 ただそれぞれが、そのままで生きればいい。

 それでいいのだー。(←慣用句)

 写真は現在の鳥取砂丘、休憩舎付近。時折雨がぽつりぽつり。でも保育園らしい集団が歩いてどっか行ったよー。

シンプル&タコ(ブログ記事)
情報処理技術者であり、音楽家・オカリーナ奏者岸本みゆうの「出張のできる」パソコン&音楽教室、パソコン教室のエフセブン

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眼は愚痴ほどにモノを言う

 中学校に入学するまでは視力は良かった。遠くまでよく見えていたし、前もってこっそり「右、右、左、下」と暗記しなくても、視力表の下まで見えた。

 12歳のある日突然症状に気付いたのは、夜空の月を見たとき。

「ああ、なんだか、今日は月が二つあるなあ。こんな日もあるんだなあ。」

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 視力はまだ良かった。最初に乱視が始まった。もしかしたら、天体の奇跡かなんかのように、くっきり月が二重に見えたのだった。

 星は、というと、みんな二つずつだ。急に2倍に増えた。なかなかお得である。

 その後、順調に視力も低下していった。学校の視力検査で「要眼鏡」と書かれた。ゲームがない時代。たぶんプラモデルに化けていたはずのお金がセルロイドのメガネに化けた。

 上の方が黒で、下が透明という、セルロイドのインテリメガネだった。昭和47年(1972年)当時は、あまり種類を選べなかったと思う。

 メガネを付けた最初のうちは、世界が歪んで見えて、頭がぐらんぐらんしていたが、視力を取り戻した嬉しさは何ものにも代えがたい。見えることがシアワセってこのことだわーっと誰にも共感されない一人だけの喜びに浸っていた。

 このメガネを高校1年くらいまで付けていたと思う。文化祭でギターを弾いていた写真のぼくがそのメガネだったから、確かだ。今では化石のようなチューリップハットを被っているその写真は永遠にお蔵入りだ。

 その後数年で、フレームが全部真っ黒のメガネ、銀色の薄いフレームのメガネ、ラピードという、少し色のついたメガネと記憶にあるだけでも、3つくらい替えているから、どんどん視力は落ちていたんだろう。

 高校を卒業してから数年はハードコンタクトレンズとメガネを併用した。昭和59年(1984年)にバイクに乗り始めると、意外とゴーグルやヘルメットの中で風が起こるのに恐れをなして、メガネ生活に戻ってしまった。

 その時期をはっきりとは覚えていないので、完全にメガネに戻ったのを仮に1987年だとすると30年が経過したことになる。

 今は、バリバリの三重奏だ。乱視、近視、老眼。ずらして見たり、パソコン専用のメガネがあったり、本を読むときはメガネを外して、10センチくらいの距離で読む。世の中に新聞の活字より小さい文字があることが非常事態である。最近、困っているのが、五線紙が読めないのだ。いや、困っていないふりはできる。楽譜を覚えればいい。それでだいたい乗り切ってきた。あとは神田川。いや、燗だ。違う、勘だ。返還が出てこなかった。

 町を歩いていても、すれ違う人の顔が実は見えない。凝視して、目を細めれば見える。でもそんなことをしたら、一発で不審者になる。

 メガネを外して夜景を見ると、この上なく、美しい。あらゆる光がにじんで見える。

 とりあえず、眼をいたわりましょうと言いながら、夜中にパソコンに向かって文章を書いている。

 とりあえず2、ここまで書いて、寝る。

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猿の神社

 布勢運動公園、ええと、コカ・コーラウエストスポーツパーク? ここの駐車場にクルマを停めて、散歩しました。 

 Googleマップのナビにウォーキングで、「布勢 古墳」と入れて検索して、その名も「布勢古墳」というのを近くに見つけ、15分程度の距離でしたので、そこまで歩きました。少し高台になった住宅街の中、丘の上でした。

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 古墳のある広場の隅の方に「日吉神社こっち」みたいな看板が出ていたので、「この近くに神社があるんだな。」と、やっぱり興味をそそられます。古墳から竹やぶの中を降りていくと、ほぼ同じ敷地内、同じ丘の湖山側が古墳で、反対側が神社みたいな感じでした。「ひえじんじゃ」と読むそうです。ここは、「布勢の山王さん」と昔から親しまれている神社だそうです。

 神社なのに、狛犬らしきものは見当たりません。その代わり、猿の像がいっぱあります。子どもの守り神、安産、忌避けなどのご利益があるそうだ。しっかりお賽銭を投げ入れて、手を合わせました。

手を洗うところにも、お猿さん
本殿の左には子どもを抱えた猿が
本殿の右には、金の弊を担いだ猿が
古墳なのか、ただの丘なのかは素人目には区別がつかない。おそらく内部に石室があるのだろうし、上空から見ればもう少し古墳とわかる形をしているのだろう。

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こうげの白兎神社

 夕方、郡家(こうげ)に仕事に行きました。途中にかわいらしい看板が見えたので、近くの道路にクルマを停めて歩いて行ってみました。周辺に駐車場らしきものはありませんでした。地名は、八頭町福本とあります。

 田んぼの中にある小さな神社です。お社は、小さいので、遠くから見えるような大きな屋根はありません。鳥居も木立の影に埋もれているので、ふだんはそこに神社があるとは気づかないでしょう。看板がないと、そこに神社があることがわかりません。あぜ道の途中に休憩するための木陰がある、そんな風情です。夏には農作業の合間にここで休む人もいるのでしょう。

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「狛犬」ならぬ「狛兎」です。石のうさぎさんは新しくて、かわいらしい。

由緒正しき神社だと書いてあると思います。白兎神社の本家ではないかという説もあるようです。
お堂は閉まっていたので、お賽銭を入れることができませんでした。

 白兎神社というと、一般に知られているのは、大国主の命が白兎を助けた伝説のある海岸、白兎海岸の近くにある神社です。ただ、この物語に欠かせないのは、大国主の妻である八上姫という人物です。八上姫は、八頭の出身であり、白兎は、八上姫の飼いウサギだという説もあります。先日の御湯神社での「朗読と音楽 奏で」でも、宮司からさまざまな興味深い話を聞きました。

佐彌乃兵主(さみのひょうす)神社
稲田姫邂逅記(前編)〜八重垣神社〜
猿の神社
こうげの賀茂神社
酉年(とりどし)にぴったりの神社
御湯神社での縁。「朗読と音楽 奏で」
稲田姫邂逅期(後編)〜たたらの灯オープニングコンサート《番外編》〜
あらきまたえもん
箱に入っていた姫

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人が変わるとき

 ぼくを知っている人は「え?」と思うかもしれない。ぼくは小さい頃は、犬が大の苦手でした。遠く100メートル先で姿を見ただけで、家に駆け込んでいました。姿が見えなくても、「ワン」と吠えた声を聞いたら、それがテレビドラマだったとしても、ビクッとしていたと思います。

 今は、犬に限らず、動物はみんな好きです。東京にいた頃は、ヒマなときはバイクに乗って山を走るか、温泉に行くか、美術館巡りをするか、何もないときは、牧場や動物園によく行きました。

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 自分自身が犬が苦手だったことを忘れていました。しかし、なぜか唐突に、ふと、思い出しました。

 犬が苦手だった頃は、人も苦手だったように思います。その頃のぼくは吃音(どもり)があり、学校での国語の本読みが一番苦手でした。

 変えてくれたのは、中学校で始めた音楽だったのかなと思います。人前で演奏するときの、少し緊張する、あの感覚がイヤではなくなっていました。逆に少しずつ、心地いいと感じるようになっていました。吃音もあまり出なくなり、1年生の時に前期、後期とあって、後期の生徒会長に立候補したので、まわりは相当驚いたと思います。結果は、落選でしたが、生徒会に入って、全校集会の司会を進んでやりました。

 人が変わるということを、「心を入れ替える」「別人のよう」と表現することがあります。あながち大げさではないのかも知れません。心が本当に入れ替わる、というようなことは現実に有るかもしれないと思うからです。

 今、また何か変わった自分を見ているような気がしています。

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