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ちっちゃいゲジくん

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 トイレにちっちゃいゲジくんがいたそうだ。今日はお風呂場にはその倍くらいの大きなゲジくんもいたそうで、さすがにその大きいのは外に逃がしたらしい。トイレのゲジくんは今もいる。10センチから12、3センチといったところだ。ちっちゃいと書いたけど、まあまあ大きい。写真も撮ったけど、苦手な人もいるだろうから、少しスケッチしてアイキャッチ画像にした。

 この時季、山陰では、こうした虫が動き出す。彼もいきなり13センチになったわけじゃない。今までは天井裏とか、軒下とか、そういうところに住んでいたわけだ。外の木や、石や落ち葉の間にもいるのだろう。

 ムカデやゴキブリはちょっと同居はできないので、申し訳ないけど、仕留めます。それ以外のゲジくんや、家グモなんかは、ほっときます。彼らと人とは今のところ、問題なく住み分けできていると思う。クモに関しては、そんなに多くはないんだけど、巣を張るクモも、もちろんいます。通り道なんかだと、少し移動してもらったりしますが、基本「住人」のいるクモの巣はそのままにしています。ほっといてもちゃんと巣ごと移動していたりします。たまに住人がいなくて残っている巣は片付けます。

 人間の傲慢さは「弱肉強食」みたいな言葉にも現れています。強いものが勝つ。それが自然の掟? いいえ、単に違いがあるだけです。動物の捕食の関係は必ずしもリングのようにつながっているわけではありません。人が百獣の王と呼ぶライオンも、死ねば、その死骸は鳥や虫や他の動物が食べるのです。

 数の論理も強弱とは関係ありません。数が多いほうが強いのではないのです。それは、強い者が残った結果、現象のひとつであって、勝利ではありません。傲慢になるのではなく、いつくしむ心を失いたくないと思います。

働くこと、ってなんだっけかな。

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 ふつう、生活するためには、お金が必要です。そして、お金のために働く。働いて賃金を得る。そう考えて、何度も転職をしながらも、私も十数年前、39歳までは割と「できる人」として働いてきました。

 生活するためには、お金が必要です。それは変わらないでしょう。社会の仕組みがそうなっているからです。

 本来、その人が、その人らしく活かされて、生きる。それが働くという意味だと思います。それを、組織や企業の中でやってきたのだと思います。

 「できる人」というのが実はクセモノです。利用され、役立ってきた。それを自分には能力が有る、活かされたと思い込む。でも、本当にそれをやりたかったのか、というと、私の場合、ノーでした。ストレスを抱えながら、二十代の頃から趣味の社会人吹奏楽団に没頭していました。期待されるから、頑張らないといけない。そうやって長い時間をかけて生きていました。

 今は、何もしない、自分を見つめる時間を持つことが必要だと考えています。そこから生まれるものが自分を活かすだろうし、収入の有無に関係なく「働いた」と自分自身が感じられると思う。何かしらそれが人の役に立つのなら、人から見ても「働いた」と感じてもらえるのだろうし、結果、それが収入になることもあるのだろうと思う。

sirawara.com《しらわら・ドットコム》発信

 ここ田後にある城原海岸は、世界ジオパークネットワークに加盟している山陰海岸の中でも、美しい海岸です。この城原海岸は、春に菜の花が咲く菜種島、幽玄な趣のある鴨ヶ磯、遊覧船など、船から眺める絶景である千貫松島など、象徴的な風景がたくさん見られます。季節ごとに表情を変え、毎日見ていても飽きることがありません。

 さまざまな記事の中にこの景色を埋もれさせてはもったいないと思い、城原海岸だけをテーマにサイトを作りました。その名もしらわら・ドットコムです。皆さん、見てください。「城原」の読みは「しろわら」「しろはら」とも言いますが、地元では「しらわら」と呼ばれています。

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歩きだす名前

 人は、生まれてすぐに最初の名前がつく。そして、死ぬまでにいくつもの名前を身につけていく。男、女、誰かの子、兄弟、生誕地、学校、あだ名、会社、役職、資格、団体、勲章、戒名・・・。

 岩美の人は、見知らぬ人を見かけると「どっから来なっただ。」「あんねのもんか。」と聞く。お礼を言うときも「どこの誰かは知りませんが、親切にしてくれてありがとう。」とは言わない。まず、どこの人か。知っている人の身内かどうか。それが気になる。本当に気になるから聞くだけで、まったく悪気はない。

 三十歳頃に東京から練馬ナンバーの軽自動車で帰ってきた。近所の小学生に「おっちゃん、また来ただか。」と毎日言われた(笑)。何ヶ月後かには「おっちゃん、いつ去(い)ぬるだ。」と言われた(泣笑)。自宅で仕事を始めてもう18年目になるが、未だ親戚や近所の人には「今日は休みか。」と言われる(脱力)。出張専門にやっているため、看板を出していない。だから、本当にそう思うから言うだけで、まったく悪気はない。

 人は、どうして名前を欲しがるのか。どうして名前ではなく、そのままの人の心を見ようとしないのだろう。歩きだす名前に自分を預けたくはないと思う。

人生はグラフでは表せない

 人々は人生をグラフにたとえることがある。成長してゆく、衰えてゆく。成功する、失敗する。そのたびにグラフが上がったり下がったりする。人生は、山あり谷ありで、生まれてすぐに上りはじめ、老いとともにだんだんと下り坂になる。多くの人々がそんなイメージを抱いているようだ。

 それなら、小さな子どもが、よく泣き、よく笑うのはなぜだろう。一方で成功者の心が必ずしも晴れているように見えないのはなぜだろう。実は、その上がり下がりを感じているのは、人の思考であり、心なのではないのか。

 心は人とともにあって、たがいに見つめるだけで自然に成長するのだろう。私の場合は、無理に育てようとして、育っていなかったような気がする。

 最近、私の中にも「黒い心」が存在することを知った。「心の傷」と言い換えてもいいだろう。「傷」だとすれば、とっくに「癒えている」ものだと思っていたし、その「黒い心」は自分にとっては、「論理的で正しい心」のようにも見えていた。それは、ふだんの私を知っている人が見たら、まったく別の人格に見えるほどなのだが、私の中では切り離すことのできない私の心の一部だった。他の誰かに私の「黒い心」を指摘されることを避けてきて、ときには攻撃的になった。でも、それが自分では見えていなかったのだ。

 今でも、その「黒い心」は存在する。今までと違うのは、そこから目をそらしたり、守ったりしようとしないで、ただ見つめようとしていることだ。それがこれからの自分を変えることになると思っている。

 人生をグラフにたとえなくていいと思う。人は誰でもいつでも、そうしようと思えば、豊かな心を持つことができるのだと思う。