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ピアノのある部屋

別の部屋にはグランドピアノもある。

ピアノの楽譜を見ながら、両手で弾ける・・・というわけではないです。演奏家として、人前でピアノを弾くことはないんですね。

メロディや和音を楽しむために弾く、という感じです。

具体的には、作曲やアレンジ、もう少し小さなMIDIキーボードでパソコンに打ち込みをしたりします。

この写真は、いつも作業をしている机の隣に最近購入したコルグD1という電子ピアノをセットしてみたという図です。ピアノのない場所で練習をするときに、これを運んで、自分じゃなくて、ピアニストさんに弾いてもらうんです。

これで、思い立ったときにピアノが弾けます。夜中なら、ヘッドフォンをつけて。

その近くにはギターも4本並んでいます。ギターは以前から、いつでも弾けるんですけど、ピアノはそうはいかなかったから、これはちょっとしたトピックスです。

パソコンも部屋ごとに置いてあったりします。

なんとぜいたくだわなぁ。

音楽っていいね。

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のんびりお盆

今日から次の日曜日16日まで、4日間仕事はお休み。お墓参りの他のさしたる用事があるわけでもなく、盆踊りとか、花火、夏祭りなどの、この時期お決まりの行事は何もありません。16日に毎年やっている岩井温泉の灯ろう流しでの河原でのオカリーナ演奏も今年は、早々に中止となりました。

浦富海水浴場は、今年は閉鎖しています。10年、20年経って、この事実を知ったとき「へぇ~、そんなことがあったのか!」と思うかどうか。

それでも、先日の土日はお盆前の連休ということで、ごった返していて、遊泳禁止(看板が各所に立っています)を無視して泳いでいる人もたくさんいました。その中で、海難事故も何件か起きてしまい、波に流された娘さんを助けようとして、亡くなられたお父さんがいました。なんとも痛ましいことです。

今日は、波は穏やかですが、皆さんお盆の準備に入ったためか、浦富海水浴場の方は人出はあまりなく、田後港の釣り人も、まばらです。その代わり、京阪神方面の方には、単なるお盆休みでしかないようで、網代や城原海岸には、路上駐車の県外ナンバーがずらりと並んでいます。例年に比べると、少ないですが。

今年のお盆はのんびりなので、今日は、洗濯、掃除、片付けが進みました。っていっても、家の中は蒸し風呂状態なので、少し動いては、風にあたって、休憩しながらでしたけど。

エアコンはかけていないんですね。扇風機の風だけ。エアコン欠けちゃうと、そこから動けなくなりますから。

Webページの整理もこの休みの間に少しやっておこうと思います。

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年齢を重ねるとともに

「自分は何歳まで生きられるのだろう。」「いつ、どんな形で死を迎えるのだろう。」「ずっと健康でいられるのだろうか。」

年齢を重ねるとともに、ぼくも、そんなことを考えることがあった。

ふと、年齢は肉体の状態を表す「ものさし」のひとつに過ぎないことに気づく。「何歳だから・・・。」というのは、一人ひとり違うし、ふだんの生き方や環境でも違ってくる。

200歳まで生きる。

ときどき、ごく親しい人に冗談のように「ぼくは200歳まで生きるから。」と言うことがある。もちろん、現実に200歳まで生きたら、バケモノだ。それは、ありえないと思う。

ただ、人生が200年あると思えば、意識が変わる。

この瞬間に、同じ時間を共有している人が存在しているということだけを考えても、それぞれが奇跡の存在に思えてくる。

「同世代」という言い方があるけれど、今ここにいるすべての人々が「同時代」人と言っていい。

年齢というものさしで区切ることに、あまり意味はないんじゃないかと思うのだ。

お酒が飲めるとか、年金がもらえるとか、社会制度上必要な「ものさし」、人と比べるときに便利なもの、でしかない。

そうは言っても歳はとる。

それも事実だし、現実だ。事実は事実として、どうするかを考える。体力も衰えるし、シワは増える。そういった変化を単に衰えと見るか、そのものさしに見合った年数生きた証と見るか。

60年生きないと60歳の肉体は得られない

結局、今ここにある肉体が自分自身の100%であって、今だからあるものだ。常に、それ以上でも、それ以下でもない。

20歳の人は20歳の体を持っているし、60歳の人は60歳の体を持っている。その年齢に見合った肉体が目の前にある。

ぼくは59年生きたから59歳の肉体を得られたのだ。

ぼくはよく腰痛になるが、20代からの持病だ。20代のときより、うまく付き合っていると思う。だいたいこれくらいというのがつかめてきた。痛いのはいやだから、予防として、ストレッチも運動もする。もう歳だからあきらめるというのは、ない。もちろん、ヘルニアになったり、手術をしたりして、状況が変わる可能性はある。その状況は状況として、受け入れる。痛みがあれば、痛みと付き合う。

一番こたえるのは愛する人の死だ

自分のことは、そんなふうに思えても、愛する人が死ぬことがいちばんつらい。

それはそのままで、今ここに愛する人がいることへの感謝に変わる。

ありがとう。

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オカリナ奏者myu

「myu」を「みゅー」と呼んでください。

岸本みゆうあらため『オカリナ奏者myu』です。

2020年7月20日の午後7時20分に生まれました。(おぎゃぁ!)

アゾースキーさんと岩美町中央公民館第2研修室というところ(ローカルな話やな)で、9月にあるイベントの練習をアゾースキーさんのフルートとぼくのギターとでやってました。で、その練習のあとで、アゾースキーさんに「どうせ今、転機なら、名前をすっきりmyuにしたらどう?」と言われたのがきっかけです。アゾースキーさん、バリバリ名付け親です。

これからは仕掛けます

今までは、ふだんはオカリナ教室の講師をしたり、パソコン教室の講師をしたり、ギターで伴奏をしたり、クラリネットを吹いていたわけです。そして、呼ばれたら演奏するという感じでしたが、まだ事務所もなんもないですが、オカリナ奏者myuを名乗ることにしました。

で、この日は、めっちゃ蒸し暑い日で、梅雨明けしないまま夏が来たというカンジです。

それでいて、海水浴場の開かない前代未聞の夏です。こんな未知との遭遇2020年なんですが、新型コロナのことも含めて、いつかは、そんなこともあったのけー、へーぇぇぇ、ってなる日も来るんでしょうか。

そういうときにこれから、オカリナ奏者としてやってくぞという気概を見せようとしているところです。

「気概」なんぞという、およそ吾輩の辞書にはない言葉を使っちゃいました。いろいろ転機はカンジてたので、たまたま白いギターケースやら、新しい電子ピアノやらが手に入ったりもしてたりしてたり。今、だなと思いました。

やりましょう。いろいろ。

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2020-GENDAI

誰にとってもショックだったし、恐怖とともに、もう日常に戻れないという感覚を感じたのは、タレントの志村けんさんの死じゃなかったかと思う。

ぼくもあの時、「まさか」と思ったし、きっといつもの笑顔で「だいじょうぶだぁ~。」と復帰会見をする姿を想像していた一人です。

あれから一気に新型コロナ恐怖がマスコミを通じて、一気に広がっていった気がします。

それから

そしてショックの波は何度も押し寄せます。

プロレスラー花さんの自殺、俳優三浦春馬さんの死は、コロナだけではない、現代のネット社会の闇があることを教えてくれているような気がしてなりません。

その闇を乗り越えないと、5G(ファイブ・ジー)だなんだと浮かれてはいけない、前に進めないのが、今ここ、なんだと思う。

これまで、人々の心は、それぞれの地域や時代背景に合わせて、敏感に反応してきた。特に日本では本音と建て前を使い分けて、高度成長を乗り切ってきたのが、戦後の社会だった。

誰もが、その高度成長がとっくに過ぎ去った過去だったことを知っているはずなのに、「本音と建て前を使い分ける」という習慣を変えなかった。

相変わらず、上下関係、男女差別が根強く残り、少数派というだけで、敵対視をする。

2020年7月

鳥取県内の多くの海水浴場が「海開き」をしませんでした。

それぞれの地元の民宿、外食産業、観光業者、関連企業、皆、協議を重ねての決死の決断だったと思います。

もちろんその決断は支持します。

「海開き」をすれば、そこに人々は殺到する。それは、目に見えています。そこで、もし感染が起これば、今年だけの問題ではなくなります。

美しい海が見えます

人々で埋もれない美しい海が見えます。

ゆったりとしたおもてなしもあると思います。

でも、「おいでよ。」って言えねぇ・・・。

なんか、申し訳ないような気もしますね。

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意識と言葉と行動を、一致させる

「意識」と「言葉」と「行動」って、ぼくはずっと一致していなかったし、それが当たり前だと思って(意識して)いた。だから、最近まで「一致していない。」ということにも、気づかなかった。

ぼくは、人に言われたことは、なんでもそつなくこなす方だ。あくまでも、これは自己評価であって、人の評価はさまざま。「あいつは、けっこう抜けてるよ。ミスるよ。」というのも、人から見たぼくの評価かも知れない。ぼく自身は「それなりにやってて、認められている。」と自分で評価していたし、今も、そう思って(意識して)いる。

できる人(と自分で意識している人も含めて)は、「できること」に集中するね。だから、常に「あれやって、これやって。」って考えて、行動している。ぼくは、そうだった。

「のんびりしたい。」「楽しくやりたい。」という「思い(意識)」は、とりあえず、どっかに置いておく。

「しんどいな。これをやるのか。」って思って(意識して)いても、「がんばればできるよ。」と言葉にしてしまう。言葉にしなくても、そう行動していた。

「こうすれば、楽しいだろうな。」と思って(意識して)いても、「まず、こうしなくちゃ。」と言葉にしてしまう。「こうすれば・・・。」という行動を封印してしまっていた。

ぜんぶ「人の目」「人の意識」なんだ。「こう思われる。」「どうせこうなる。」という意識。

最近ね。心の中で言っていることが、ぜんぶ現実になっていることに気がついた。それは、実際にどんな言葉を言おうが、どう行動しようが関係なく。

「ああ。あの人嫌だな。」という意識を持ったら、その人は、漏れなく100%「嫌な人」になる。どんどん嫌な人を作っていく。

そうではなくて、自分の中の「この人好きだな。」という意識をちゃんと見る。そうすると、どんどん好きな人が増えていく。

無理に「嫌だ。」という意識を変えなくていい。「いや。」も「好き。」も自分の感覚だから、何がいやなのか、どこが好きなのかをちゃんと見る。

自分の意識と、ちゃんと向き合うと、嫌な人もそのまま、認められる。好きな人のことも、大切にできる。

自分がどんどんシンプルになることに気がついた。

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信号待ちでブログを書く

iPhoneで音声入力なら、それが可能だ。そのことに気がついた。もちろん、運転中は絶対にやらない。

これなら思いついた時にiPhoneに向かってしゃべればブログが書ける。

午前中は、自宅で事務的な仕事をしていた。午後から、家電ショップを回って、お客さんに頼まれていたインクジェットプリンターを探しに行った。今とにかく在庫が品薄だ。やはり部品の供給が追いつかないんだろうか。製造工場も、閉鎖していたところも多かったのかもしれない。

5%還元の影響で買う人が多かったからじゃないかっていう人もいたけど、真相はどうなんだろう。

今日は、梅雨らしい曇り空だ。今にも降りそうだが、ポツリぽつりとしか降ってない。

うっかり、Wi-Fiじゃなく4Gで写真をアップロードしちゃった。雲間にかすかに見えた空をバックに、ネムノキの花。

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やばい!腹筋30回がキツイ。

ひとまず、今日は腹筋運動を30回しました。久しぶりだったので、たった30回がきつかった。これからは、50回を日課にしないとね。

いつも、夏になると、トレーニングを始めます。冬の間は、できないので。・・・できないことに、してます。

熱中症がニュースになるような時期に走り始めたり、してます。

今年は、まだ、ですね。

去年は5月~6月は腰痛で、寝て過ごしました。

暑いときに汗をかくのが、気分的には好きです。ただ、体は、用心をしないといけません。なので、日々の記録は必要かなと思います。今日がどうだったかを知れば、何が必要か、どうしたらいいかが、わかります。ストレッチも必要ですし、お酒を控えたり、睡眠や休息との関係も見ないといけません。

タイトル画像は、iPadやAndroidタブレットで使っているBluetoothキーボードのiclever IC-BK03ですが、広げる前は上下がわかりにくくて、広げてから「おっと。」となることが多かったので、アップルマークのシールを中央に貼りました。

これで、「おっと。」はなくなって、サッと取り出して、すぐに広げて使えます。

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見る、知る、ということ。

人はそのもの見ているようで、見えていないことが多い。見えていると思っていることの、ほとんどが、記憶から来る錯覚と思い込みによるものだ。

ぼくはもともと記憶力がいい方ではないので、失敗も多いし、迷惑をかけたことも多い。

記憶力のいい人は、記憶こそ真実だみたいに思うかもしれない。しかし、記憶というものは、その人が見て知った一方向の情報の断片に過ぎない。

いくら一人の記憶が確かでも、記憶に残らなかった情報は、たしかに存在する。むしろ、見えなかった知り得なかった多方向の情報の方がはるかに多く存在する。

「知る」ことは、真実を突き止めることではないと思う。

ぼくは、こう見えた、こうだったと思う。でもそれは、ひょっとしたら、こういうことだったのかも知れない。というような可能性を考えるゆとりを持つことが「知る」ことではないだろうか。

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いっぽんどっこの唄

♪ぼろは着ぃてても〜♪って、あの曲。

貧乏でボロを着ていてもがんばってる男の歌かなぁとか、一途なガンコな一本気な汗くさい男の歌かなぁとか、ぼくはどこかでそんなイメージをこの歌に描いていたと思う。

オカリーナの個人レッスンでこの曲にリクエストがあった。いつもやっているように、歌詞を読み、タイトルの意味を調べてみた。

「いっぽんどっこ」というのは、男性が着物の上から締める博多織の帯のことだった。

どこかの方言で「一本気な男」のことかなぁと思っていたのは、「いっぽん・・・」という語感から感じた、ぼくの勝手な先入観だった。

さらに、その帯の名前にも由来があって、お寺のお坊さんが使う仏具の中に両端が尖ったヤリの先のような金具がある。それを「独鈷(とっこ)」というんだそうだ。博多織のこの独鈷を模した模様が由来だそうだ。

そうやって、改めて歌詞を読んでみると、なんだか粋で芯のある、カッコいい男のイメージが浮かんでくるから不思議だ。