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桜咲く。

3月23日に、開花宣言が出たらしいです。風はまだ冷たかった。夜には、東京オリンピックの1年以内の延期が発表されました。安倍総理の方から、IOCに提案したということのようです。

今日一日の流れなど

午前中は、オカリーナのレッスンでした。午後、鳥取市末恒(すえつね)地区公民館でのオカリーナ教室。

今日は5のナンバーをたくさん見かけました。555とか、5555とか、10台くらいは見たんじゃないかな。日によってナンバーは変わりますが、ここのところ、連番をよく見かけます。

もさ海老。

今日のお昼は、末恒地区公民館から2キロほど西に行った先にある、白兎道の駅の2階で「幻の味・もさ海老天丼」を食べました。3月末までの限定です。海老は、カリッと揚がっているので、まるごと食べられます。

もさ海老の「もさ」というのは、「猛者」と書きます。武士が兜をかぶったような風貌をした見た目がごつい海老です。身がプリッとしてて、歯ごたえがあります。鳥取県東部では、ふつうにこの時期に食べていた海老ですが、それほどたくさん穫れるわけでもなく、あまり日持ちしないので、ほとんどが地元で消費されていたそうです。おいしいです。

この写真には写っていませんが、サーフィンを楽しむ人も少しいたようでした。

そのあと、個人の方の音楽レッスンがあって、夜は県外にギターコンサートを聞きに行く予定でしたが、コロナの関係でキャンセルとなりました。

インフォデミックなのか。

今回、オイルショックのときのように、人々は混乱して、さまざまな情報に流されることになりました。

トイレットペーパーの買い占めに見られるように、誤った情報に動かされました。

現代は、正しいか正しくないかに関わらず、あらゆる情報が瞬時にインターネットを通じて拡散します。それに加えて、メディアも繰り返し、ある特定の情報だけを流し続けます。武漢が封鎖となれば、どれだけひどい封鎖だったかをクローズアップしようとします。

東北の震災のときには、津波のショッキングな映像がテレビでも、ネットでも繰り返し流され、他の正確な情報が見えにくい状況がありました。

あらゆる専門家が懸命に救済に取り組み、分析をし、対応策を練っていたと思います。

今回のことで、私たちは、これまで以上に、正しい情報を見極める必要があることを学んだんだと思います。

もう不確かな情報を見る必要はないと思います。

「オーバーシュート」というような用語も出てきました。予測と異なる過度の増加というような意味ですが、どういう予測をするかによって、判断が分かれる可能性があります。

怖いのは、オーバーシュートではなく、前にも書いたように、社会の変化であり、今現在収入が途絶えてしまう、事業が成り立たなくなる人々がいることです。

過度に恐れないこと、安心すること。

過度の恐れは、人々の免疫力を低下させることがわかっています。まずは、おいしいものを食べて、栄養を摂って、よく眠ることです。

夜11時を過ぎました。いろんな人に支えられて、今日もいい一日を過ごしました。ありがとうございます。おやすみなさい。

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きっと大丈夫。

午前中は、パソコンのレッスン、夕方はギターのレッスン、夜はオカリーナ教室のグループレッスンと、いろいろでした。

午後の空いた時間に、お世話になっているクルマ屋さん、アップリードカーサービスで、スタッドレスタイヤをノーマルに交換していただきました。

先日新調したばかりのタイヤなので、ロードノイズもなく、イー・パワーの本領発揮といった感じでとても静かです。

夕方には、鳥取でも島根でも桜の開花宣言が出たように、暖かな穏やかな一日でした。

深夜になると、さすがに10度は切っているでしょう。風呂上がりに部屋のストーブをつけました。

安心してほしい

コロナに対しては、鳥取では感染者が出ていないので、安心していい状況のはずなのに、逆に戦々恐々としている雰囲気がところによって見られます。

砂丘の人出が最近多い。県外ナンバーばかり。だいじょうぶか。そう言うんですね。

だいじょうぶです。

あなたは、1970年代のオイルショックや、2008年のリーマンショックで何か損害がありましたか?当時株を買っていましたか?ペストや結核で家族を失った経験がありますか?最近の地震や震災で失ったものはありますか?

多くの方がノーでしょう。

むしろ、こういう設問のほうが、切実かも知れません。

インフルエンザやガン、交通事故で身内の方を失った経験がありますか?

失うまではなくても、インフルエンザにかかった、ガンの告知を受けた。交通事故を経験したというのは、案外誰にとっても身近です。それでも、生きているとしたら、ラッキー以外の何ものでもないわけです。

ぼくもインフルエンザや高熱の風邪の経験は何度もあります。交通事故も経験しました。友人や知人をガンで失っています。

病気にしても、事故にしても、起こるときには起こります。それは、今だからではないと思います。コロナだけを心配しても始まりません。心配することよりも、今を生きることのほうが大事です。話題の漫画のワニじゃありませんが、明日、死ぬかも知れないとしたら、生きていることがどんなに素晴らしいことか。

医療関係の方のご苦労には感謝しかありません。

今、事業が停止してしまっている方、収入が一時的に途絶えてしまっている方がいます。

こうした方々に対しては、公的な支援、救済が必要と思われます。

それ以外の方は、なかなか難しいことですが、平常でいること「こんなことがあったけど、あわてなかった。」と思えるとしたら、将来の自信にもつながります。

同じような話題を続けているような気もしますが、大丈夫。そう思うことから、未来は開けてきます。それは、事実です。

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ミニマムで豊かに

20代の頃は、布団と多少の荷物が収まるくらいの押入れと、簡単なキッチンがついたバス・トイレのない小さなアパートの一室で暮らしていました。

近くを流れる川が、神田川です。歩いて数分のところに銭湯があって、ラーメン屋も一杯飲み屋もありました。窓を開けると新宿のビル群がピカピカ光って見えます。最寄り駅が地下鉄丸の内線、中野坂上だったので、新宿からは歩いても30分くらいで、夜中に黒電話が鳴って、新宿の飲み会に誘われることもありました。終電が終わると、数人がたった一組の布団しかないぼくの部屋に転がり込むのでした。

末っ子で高校卒業と同時に上京した者としては、同じように一人暮らしをしている40代、50代の先輩ミュージシャンが近くに何人かいたので、故郷に帰ることはないものとして暮らしていました。

ジャズ喫茶でチーズのおつまみをいただきながら、ちびりちびり、オン・ザ・ロックを飲むのが一人の夜の楽しみでした。それから、中野サンプラザの近くには「クラシック」という鉄だか竹だかの針でSP版レコードをかけてくれる喫茶店があって、そこにもよく行きました。

休日の昼間は、よくレコード屋に行き、レコードジャケットを1枚1枚、素早く引き出しては、戻す。さっさっさっ、ジャケットを見るわけです。レコードは、そうポンポンと買えませんでした。気に入ったレコードを擦り切れるほど聞きました。

東京には、10年近くいました。10年もそんな状況で東京で暮らせていたわけだから、実は生活するのには、モノも、お金もそんなにいらなかったと思います。家電というと、テレビ、冷蔵庫、ラジカセくらいはありました。

電話は黒電話です。これが一番の贅沢品でした。当時は債権というものを買わないと電話が使えなかった。受話器と本体の間にセットするタイプの留守番電話もありました。

あれから30年以上経ちました。あの頃に戻る必要はないけれど、何もなくても生活はできる経験をした記憶は残っています。

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春分を迎えて

音楽三昧

3月20日は、春分の日・祝日だったけど、倉吉市内でのオカリーナ教室が3つあった。午前の教室は予定通り、午後は、コロナの影響で先週からの振替だった。

空は春霞。晴れてはいたが、前の日に続いて、風の強い日だった。

夕方、クルマの中で録音した「ニュー・シネマ・パラダイス」をSoundCloudにアップロードした。これは、数年前に宍粟市のオカリーナグループで演奏するために、ぼくがオカリーナ五重奏用に編曲したものだ。

こうして一日音楽をして過ごせるというのは、幸せなことだ。

朝日のあたる街

21日は朝早く目が覚めて、ちょっと近所をドライブした。見慣れた街の景色が朝日を浴びていた。午後からは影になる風景がきらきら輝いていて、光の当たり具合によっては、違う印象に見えたりもする。

クルマを運転しながら、バイクに乗っていた20代~30代の頃を思い出す。排気音のリズムや、朝日に輝く街の記憶がよみがえってくる。

帰ってから、家族がまだ寝静まっている家で、ヘッドフォンでボブ・ディランの「朝日のあたる家」を聞いた。

現代は、YouTubeという便利なものがある。自転車を走らせて30分ほどかかるレコード・ショップが開くのを待って、お目当てのレコードを探して、徒労に終わる経験をもう誰もしなくていい。気が向けば、ジョーン・バエズの歌もすぐに聞けるのだ。なんて素敵な時代なんだろう。

午後は家族でお墓参り。墓場は、港の近くの山の上の見晴らしのいいところにある。ありがたいことに、今日は風が穏やかだった。風が強い日は、ろうそくも線香も火を点けるのに苦労する。

夕方、クラリネットのレッスン。レッスンのあと、「刀剣乱舞」のライブがコロナで中止になったり、内容が変わったということで、その話題で盛り上がったが、ぼくはよくわからない。「へぇ、そうなんだー。」って、驚くばかり。

その後、明日の鳥取市文化センター、ヤマシタ楽器の音楽発表会のリハーサル。たった一人でリハーサル。ステージを占領する快感。リハーサルはお世話になる会館の方と挨拶できる貴重なチャンスです。どうぞ、よろしくです!!

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春の強い風

自宅にいて、1、2時間空きがあるときは、掃除、洗濯、片付けですね。多くの方の日常だと思いますが。

今日の午前中はそうでした。

いきなり春の陽気で、暖かくて、晴れました。ただ、風がめちゃめちゃ強かった。

鳥取、というか、山陰側は、コロナ騒動とは少し距離感があります。マスクしないで通りを歩いている姿も珍しくありません。このまま平常でいてほしいと思います。

これって、人口密度、そのままやなぁ。そんな感じですね。砂丘とか、観光地に行けば、京阪神ナンバーのクルマは並んでいるし、交流人口は決して少なくない。ただ、中国からの団体さんは見かけませんね。

あんまり、意に介さない風土もありますね。基本、他人事(ひとごと)です。「煮えたら食わぁ。」とは、よく言われます。

政治にしても、時事にしても、ニュースやテレビのワイドショーはぼくは見ないけど、鳥取の人は、よく見ると思います。スタンスは「見物」です。我が身に感じていない。コロナもこういう風土からは逃げちゃいますね。実際、それでいいのです。

午後からは、パソコン講座をやりました。エクセルです。

なんでいきなりパソコンの講座を始めたのか、この辺の経緯やどんなことを始めたのか、などは、パソコン教室のエフセブンの方に、あとで書いておこうと思います。

夜はオカリーナ教室でした。今日もよく働きました。楽しい一日でした。

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神々の微笑み

晴れの一日

今日はいい天気。ドライブ日和でした。

わざと時間のかかる道を選んだり、寄り道をしたりして。

今日は、時間があったので、午前中から出かけて、どこかでお昼をゆっくりと食べようと思っていたら、ぜんぜん時間が足りなくなって、コンビニのおにぎりになりました。

「うまい!」の一言

コンビニのおにぎり、パリッパリの海苔がうまい。

感じたことは、声に出そうと思い「うまい!」と叫んでいました。一人で運転するクルマの中なので、誰も聞いていません。でも、声に出すと、少し口元が緩みますね。

コンビニのおにぎりがギッチギチの固いおにぎりで、ぺったんこの海苔が直接巻かれていた時代を知っています。現代のコンビニおにぎりは、世紀の大発明だなと思います。

午後はちょっと荷物の受け渡し。少しの時間話をしましたが、皆さん、マスクをしておられました。ぼくはマスクをしてなかったけど。

「きっと、だいじょうぶだと思うよ。」そうやって、声に出すと、お互い笑顔になります。

もう一箇所寄り道をして、今日は300キロくらい走ったかも知れない。

不思議なナンバー

クルマのナンバーが行きは、7、77、777、7777と続けて見えて、ちょっと驚きました。しばらく走ると、8、88、888、8888と続けて見えました。あとはランダムでしたが、ゾロ目がよく目に入る日でした。

やはり日一日と変化を感じています。

神々の微笑み

数日前からKindleで『古事記物語』(鈴木三重吉・著)を読んでいます。神様の名前がどんどん出てくるのでスピードが追いつきませんが、おもしろいです。

先日米子市美術館で見た境港市出身の洋画家、小灘一紀(こなだ・いっき)さんの展示(終了)も、テーマが「神々の微笑み」で、古事記に登場する神々を題材に描かれた作品が多くありました。

『古事記物語』には挿絵がないのですが、読み進めるごとに、頭の中には、小灘さんの絵が浮かびます。

神々も「きっとだいじょうぶだ。」と微笑んでいるでしょうか。

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シェアする時代

録音してみました。

昨日楽譜に仕上げたバッハの「主よ人の望みの喜びを」を録音しようと、なるべく静かで人の迷惑にならないような場所を選んで車を停めて、録音のときにはエンジンもエアコンも止めて録音しました。

オカリーナの七重奏ですから、まず基準となるオルガンの動きのあるパートに当たるメロディを録音して、それに合わせて、1パートずつ、重ねていくという感じです。音程が気になるところはあるけど、まずまず短時間の録音でここまで録れたら上出来でしょう。

こころに主イェスを(オカリーナ七重奏)

午後もオカリナの仕事

午後はちょっと仕事をしました。中古のオカリナを売る仕事のお手伝いです。

話はガラっと変わります。

日本は最近もちょくちょく地震があって、大きな災害も経験もして、それでも戦後の一時期の高度成長の幻想を夢見ていたわけでしょう。で、この度のコロナ騒ぎで、もうそういう幻想は切り離してもいいんじゃないかと、たくさんの人が気がついたんじゃないかと思う。

シェアする時代

「これシェアしましょう。」って、話、ふつうに会話の中で出てくるようになったと思います。今までは、なんでもかんでも利益になるようなことは、権利と結びついていて、場合によっては、お金になり、独占することもあったと思う。

もちろん、なんでもかんでも水や空気と同じようにシェアしてたら、一人ひとりの権利があやふやになってしまいます。

利益も権利も、一人ひとりに当然あって、守られるものです。

インターネット以前の時代は、それがモノだったし、お金だった。だから、みんなお金を欲しがったし、消費し、浪費し続けていた。

それが、情報という、目に見えない形のないモノになって、瞬時に広がり、簡単にシェアすることが可能になった。

お金だって、現代は、ただの数字になりつつある。いや、もともとただの数字だったんだけど、お札や硬貨が葉っぱに見えなかっただけだわ。

これから、なんか違う世界が見えてきそうな気がしています。なんとなくですけど、最近、そう思います。

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選択する今と未来

寒い一日。

今日は寒かった。珍しく一日家にいたし、ずっとストーブをつけてて、それでも寒かった。天気予報では明日雪がちらつくらしい。

県外でイベントがある予定だったのが、今回のコロナ騒ぎで中止になって、その分時間ができた。

いつものように朝は起きたし、掃除もした。着替えていつでも出かけられる準備は整えていた。

でも結局、片付けものをいろいろとやって終わった。

「主よ人の望みの喜びを」

前から要望のあった「主よ人の望みの喜びを」をオカリーナ七重奏で吹けるようにアレンジもした。コラールの四声とオルガンのパートを三重奏に分けた。本当にやってくれるかな、と内心思いつつ。

あとは、本を読んだり、動画を見たり、音楽を聞いたりした。

言語化、アウトプット。

ぼくもそうだけど、人間は予測して行動する。予測というのは、記憶であり、過去の経験だ。それがあいまいだったり、自分の感じたものと違っていても、予測を優先してきたと思う。すべて行動は自分の選択だ。「無難なもの」「社会が求めるもの」を選択する習慣をもっていたということだった。

その習慣を一気には変えられないにしても、自分が何を感じているかは、こうして、言葉にすることで自分自身で見ることができる。アウトプットが大事というのは、そういうことだ。

人の目にもさらされるし、読み直すことで考えることになる。見過ごすことは、これからはできない。

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緊急事態のその後

風邪をひいていました。

ぼくは、2月14日金曜日の午後あたりから、声がかすれる、体が重いなどの症状が出てきました。それから10日間ほどは、ちょっと風邪気味でした。その頃、中国の武漢でなんかとんでもないことが起きているらしいくらいのニュースは入ってきてはいたんですが、ちょうどひと月経って、日本国内でも広まってきて、かなり状況は変わってきたと思います。頭の隅で「風邪をひいたのが、今でなくて良かったな。」なんて思っています。今は、元気になりました。

どうなるんだろう。

先日、国会で緊急事態基本法みたいなのが通っちゃったし、今はやらないって言ってるけど、急に患者の数が増えちゃったり、オリンピックがどうかなっちゃったりしたときとか、どっかの時点で実行に移されるんだろうって思う。外出制限もあるだろうし、ぼくのような自営業だと、収入はめっちゃ落ちますね。

でもあまり不安に思ってなくて。

それが過ぎたところで、社会の仕組みが元に戻るかどうか、どうでしょう。その後も、ぼくはたぶんインターネットを通じて、自宅でできることに集中して取り組むことになるのかなと思います。

その準備を今からしておこうと思います。

じゃあ、アフィリエイトやアドセンスで稼ぐのかというと、それはあまり考えていません。そもそも欲しい欲しいと思うと手に入らないモノです。お金には念がありますから、特にそうですね。

役立つ情報をつなげる仕事をしたいなと思います。自分自身で持っているものをとりあえず、ぜんぶ出してみる。持っているだけだと、人にいじられていないですから、いっぱいいじってもらう。その中で育つものあるだろうし、消えちゃうものもあるかも知れない。

とにかく、アウトプットをやるってことですね。自分で言語化していなかった部分を言語化していく。

そして、どんどん発信する。

今回のキャッチ画像は。

近所にあるお地蔵さんの「家」?なんて言うのかな。何体かのお地蔵さんが並んでいて、お年寄りが毎日掃除して、祀ってます。各地でお地蔵さんや小さなお稲荷さんとかよく見かけるんですが、時々あまり手入れされていないものも見かけます。

あるお地蔵さん。一見するとよくわからない。黄色い布がかけられていて、見えない。

こういった写真は一例なんだけど、自然や文化、大切にしたいものを自分自身が見直すきっかけになったものを発信して、何か伝わればいいかな、とか。

これから、毎日、なんか書きます。

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ぞろ目の日

今日は令和2年2月22日ですね。もともと2020年ですし。

午前2時22分は寝てました。午後2時22分はオカリーナのレッスンをしていました。22時22分はお風呂に入っていたようですね。

クルマのナンバーで言えば、今日は9と6、あと2もだったかな。3桁、4桁のぞろ目のナンバーをよく見かけました。

これは、何かしら「変化」「始まり」を暗示しているらしいです。

ぼくはね。その意味はあるだろうなと、信じています。

なぜなら、数字そのものも周波数だからです。言葉もそうです。波動を持っています。単にその数字と出会っただけでなく、ぼく自身の波動と合ったから、印象に残る形で見ることになったのです。波動が合わなければ、ただ通り過ぎて、見ることはなかったわけです。

すべての人々に神のご加護があることを祈ります。

ふと、目の前に古ぼけた御守りがあって、總本山信貴山(しぎさん)朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)ってある。

奈良のお寺らしい。行ってみたい。