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歩きだす名前

 人は、生まれてすぐに最初の名前がつく。そして、死ぬまでにいくつもの名前を身につけていく。男、女、誰かの子、兄弟、生誕地、学校、あだ名、会社、役職、資格、団体、勲章、戒名・・・。

 岩美の人は、見知らぬ人を見かけると「どっから来なっただ。」「あんねのもんか。」と聞く。お礼を言うときも「どこの誰かは知りませんが、親切にしてくれてありがとう。」とは言わない。まず、どこの人か。知っている人の身内かどうか。それが気になる。本当に気になるから聞くだけで、まったく悪気はない。

 三十歳頃に東京から練馬ナンバーの軽自動車で帰ってきた。近所の小学生に「おっちゃん、また来ただか。」と毎日言われた(笑)。何ヶ月後かには「おっちゃん、いつ去(い)ぬるだ。」と言われた(泣笑)。自宅で仕事を始めてもう18年目になるが、未だ親戚や近所の人には「今日は休みか。」と言われる(脱力)。出張専門にやっているため、看板を出していない。だから、本当にそう思うから言うだけで、まったく悪気はない。

 人は、どうして名前を欲しがるのか。どうして名前ではなく、そのままの人の心を見ようとしないのだろう。歩きだす名前に自分を預けたくはないと思う。

感覚の浸潤力

オカリーナ四重奏サンクトゥス

 丸い形を見て「丸い。」と思う。これはごく当たり前の感覚で、直感的な一次元的な感覚だ。

 そして、同じ丸でも「大きさ」「歪み」「色」、「質感」など、その丸が持っている特徴を捉えることができる。これは頭の中で写し絵をするように、見えているものの特徴をつかんで、イメージとして描く、二次元的な感覚だ。

 人々が多面的にものごとを捉えるというとき、この二次元的な感覚を積み重ねてゆくことを意味することが多い。頭の中では、たくさんの写し絵のカタログを集めて、その写し絵にさまざまな情報を書き加えていく。とても高度で熟練を必要とする人間ならではのものの捉え方と言えるだろう。知的、あるいは論理的と言われる方法だ。

 それでは人間以外の動物はどうだろうか。彼らは、ものごとを知識として捉える能力が乏しいのだと言われることがある。本当にそうだろうか。もしそうだとしたら、彼らはなぜ過酷な自然を生きられるのだろうか。人間は、彼らから学ぶことができる。知識や行動ではなく、感覚を研ぎ澄ませ、まず心で受け止めることが大事なのだと。感覚が瞬時に心に行き渡ることを「感覚の浸潤力」と呼んでみた。感覚を心で受け止め、大事にすること。その受け止めたものを心に行き渡らせることが必要なのだ。

 そうやって、心から感じたことこそが、行動に生かせるのだと思う。

 写真は、2017年1月23日月曜日、今朝の鳥取市内の風景。大雪でした。次の予定まで動けないので、コンビニの駐車場で次の時間までと思い、文章を書きました。そう言っている間にも真っ白になり、駐車場の出口に立ち往生したトラックが・・・。

平熱の体温を計る

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感想(2件)

 「なんとなく寝不足だなぁ。」と思いつつ、夜中の1時、2時までだらだらと起きていて、それが普通という感覚だった。今でもそうだけど、目覚ましがなくても毎朝同じような時間に起きられた。でも、やっぱりいつも睡眠不足は解消されなくて、午後、夕方時間があくと、昼寝をしてしまう。こんなことなら、ちゃんと睡眠をとりたいと思い、自分の睡眠の状態を見ることができるJawbone UP3に興味を持った。UP3というのは、アクティビティトラッカー、日本語でいうと「活動量計」のひとつだ。UP3発売当初、発売延期があったり、いろいろなトラブルがあったために大きな有名サイトで酷評され、評判を落としてしまったが、製品そのものはその後もいくつかの改良を加え、アプリも新しくなって良くなっている。REM睡眠や深い睡眠の状態を毎日詳しく見ることができるというのは、しばらく前では考えられないことだった。

 睡眠の状態が詳しく見えるようになると、今朝はREM睡眠が少ないから、今夜は頭を休めようとか、時間が足りなかったので、早く寝ようとか、しっかり睡眠を取るようになるし、一定の時間に眠りにつくようになる。それからUP3の特長は、微弱電気により心拍数を計測できること。これも自分の体の状態を知るうえで欠かせない。歩数ももちろん計測できる。

 ある時、平熱の体温を自分が知らないことに気が付いた。これまで自分の体温を計るというと、風邪をひいたときか、病院で検査をするときくらいだった。病院そのものにはここ何年も行っていない。そこで、体温計を購入し、記録することにした。UP3のアプリには、体温を記録する項目がなかったので、iPhoneの「ヘルスケア」で記録をとることにした。体温計っていうと、もう水銀を使った体温計はなくて、電子式で、早く計れる機能のついたものがほとんどだ。体温計も電気屋で買う時代なんですね。ぼくは、いろいろ機能のついたものではなく、しっかり時間をかけて計れるシンプルなものを購入した。これが一番安いし、長持ちする。

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感想(6件)

音楽教室の本棚

オカリーナ三重奏「埴生の宿」

 これは、パソコンデスクの下にある棚、足元の空間です。ここには、本棚に収まりにくい背の高い本を並べています。本と本に挟まれてぎゅうっとサンドイッチになっているのは、コンパクトサイズのシュレッダーです。楽譜集など、音楽関係の本って、A4か、A4より一回り大きいサイズのものが案外多いんですね。それで、結果的にこの空間には音楽関係の本が集まってしまったというわけです。もちろん、これは一部です。

 テレビで学者さんや作家さん、あるいは政治家とかがインタビューを受けている背景に、図書館か?っていうくらい、背の高い大きな本棚にびっしりと難しそうな本が並んでいる、という風景を見たことを、ふと思い出しました。他の人の場合には、漫画のシリーズ本が順番に並んでいたり、本棚に入り切らない本が、ランダムに積み上げられている風景があったりと、本棚やその周辺を見ると、その人の日常の景色が見えるような気がします。

 私は、以前は文庫本などよく買って読んでいましたが、今は文芸書はほとんど買いません。繰り返し読む本以外は無駄に思えるからです。1回読むだけなら、図書館で借りるか、今はkindleでも、タブレットでも読めます。パソコン関係の専門書も最近はほとんど買わなくなりました。最新本の内容が半年後には古くなってしまいます。2〜3,000円払って買った本を束にして処分するのは、もう、もったいないですね。

2016年を振り返り

 このホームページの更新ができなかった2016年11月、12月は疾風のように駆けていったような気がします。

 2016年は、音楽ライブユニットぽんかん。が摩尼寺とつながったこと、これが何よりも大きなトピックでした。私たちは5月に縁があって、常駐しておられる居川敬信さんというお坊さんと出会います。ご住職は現在鳥取市立川にある大雲院と兼ねて住職をしておられるということで、ふだんはこのお坊さんがたった一人でこの寺の行事を執り行っておられます。出会ったその日にたまたま持っていたオカリーナを本堂で吹きました。音が雲のように天井に広がり、包み込むような響きがしたことを鮮明に思い出すことができます。ぼくは感動すると同時に、コンサートホールとは違う感覚に不思議さと軽いめまいのような浮遊感を感じていました。それでも二人で何度か訪れ、居川さんと話をしているうちに、谷口さんからここで自由な練習会をしてはどうかという提案がありました。

 ぼくが行っているオカリーナ教室の皆さんに声をかけて、10月まで5回の練習会を、本堂の奥にある如来堂で開催しました。摩尼寺については、中国観音霊場のホームページがありますし、ぼくのホームページの方でも詳しく書こうと思っています。

 谷口さんから、この如来堂で録音してぽんかん。のCDを作ろうという提案があったとき、漠然と童謡唱歌を収録するのかなというぐらいの考えしか浮かびませんでした。「ピアノは?電子ピアノ?」「オカリーナで?歌で?」考えがまとまらない中で、降ってわいたようにfacebook上の共通の知人であった吉田幹男さんという方から「こういう曲はどうだろう。」と大伴家持の歌に伊福部昭が作曲したという万葉五首の5曲の提案がありました。最初はどうしたらいいのか、イメージがわかなかったのだけれども、これまで、オカリーナと歌だけで演奏する曲目が既に何曲かあって、そのスタイルでやってみようということになりました。その後の機材の選定や録音の方法などの詳しいことはホームページの方に書くことにします。

智慧と道具の物語

 人類にとって、最初の道具は木切れだったり、石ころだったり、ごく身近なものだった。そんな遥かな昔から、人類は道具を使い、智慧を身に付けてきた。

 道具や智慧はムラなどの共同体、コミュニティーの中で共有され、大切に受け継がれていった。

 コミュニティーがまた別のコミュニティーと交流し、道具や智慧が広がって定着することで、文明を築いてきた。

 道具や智慧は、人々の心と結びつき、芸術や文化を育て、暮らしを豊かにしてきた。

 最初はごく単純な道具だった。それが、だんだんと高度になり、複雑なものが増えていった。それを使うための技術がもてはやされるようになった。

 人々が気づかないうちに、智慧は心を離れ、争いを始めた。

空想の散歩。ちょっと空っぽになってみる

 何も考えない。何も知らない。ただ感じるだけの存在としての、自分を想像してみる。生まれたばかりの赤子のように。光を感じ、ぬくもりや冷たさを感じる。風景はただ見えるだけで、意味を持たない。

 そうやって想像していくうちに、ふだんの自分が感じたままを感じているのではなく、経験や知識と思考を通して風景を見ていることに気がついた。頭の中にその経験や知識の付箋で書かれたメモのようなものがあって、即座に反応する。危ないと感じ、それを避ける。この付箋の一つ一つが元になって、どんなふうに行動するのかを決めている。そこに、確かな意識はあまりない。そして、その中で形作られる付箋のカタマリでしかない人間像を自分自身だと思っていた。

 好きだとか、いやだとか、ほっとするとか、こわいとか。自分の感情だと思っていることがらの多くは、実はこの付箋のメモのひとつの項目に過ぎない。

 びっしりと貼り付けられた付箋のメモを一度に剥がすのは無理だが、ときどき一枚一枚めくってみることは必要なのだろうと思う。

 空想することはいつでもできる。一度にぜんぶを空っぽにすることはかなわないことだが、何も考えない。何も知らない。ただ感じるだけの存在としての自分を想像することで、やっと本当の自分自身を知ることが出来るのかもしれない。


人生はグラフでは表せない

 人々は人生をグラフにたとえることがある。成長してゆく、衰えてゆく。成功する、失敗する。そのたびにグラフが上がったり下がったりする。人生は、山あり谷ありで、生まれてすぐに上りはじめ、老いとともにだんだんと下り坂になる。多くの人々がそんなイメージを抱いているようだ。

 それなら、小さな子どもが、よく泣き、よく笑うのはなぜだろう。一方で成功者の心が必ずしも晴れているように見えないのはなぜだろう。実は、その上がり下がりを感じているのは、人の思考であり、心なのではないのか。

 心は人とともにあって、たがいに見つめるだけで自然に成長するのだろう。私の場合は、無理に育てようとして、育っていなかったような気がする。

 最近、私の中にも「黒い心」が存在することを知った。「心の傷」と言い換えてもいいだろう。「傷」だとすれば、とっくに「癒えている」ものだと思っていたし、その「黒い心」は自分にとっては、「論理的で正しい心」のようにも見えていた。それは、ふだんの私を知っている人が見たら、まったく別の人格に見えるほどなのだが、私の中では切り離すことのできない私の心の一部だった。他の誰かに私の「黒い心」を指摘されることを避けてきて、ときには攻撃的になった。でも、それが自分では見えていなかったのだ。

 今でも、その「黒い心」は存在する。今までと違うのは、そこから目をそらしたり、守ったりしようとしないで、ただ見つめようとしていることだ。それがこれからの自分を変えることになると思っている。

 人生をグラフにたとえなくていいと思う。人は誰でもいつでも、そうしようと思えば、豊かな心を持つことができるのだと思う。

パソコンって必要なのかな

 ぼくはパソコンを必需品だと思っている。仕事でWindowsを使う、マックも使う。パソコンがなければ暮らせないだろう。

 しかし、ほんの30数年前には、携帯電話も持っていなかった。新聞の折り込み広告の中で裏面に印刷されていない紙を探して、折りたたんで、また適当な大きさに切ったりして、メモ代わりに使っていた。今でもそれで事足りる暮らしをすることは可能だ。パソコンがなければ暮らせないというのは、単なる思い込みだし、本当は幻想だ。

 こうやってホームページに文章を記しているとき、本当は原稿用紙でもなんでも構わないのだ。人に伝えることが目的ではない。誰かに読まれる確証はまったくない。もともと自分の考えを整理することが目的だから、読まれなくてもいいし、メモに走り書きをしたってかまわないのだ。ある日突然消えてしまってもうろたえない自信はある。

 生活に必要なものは、個人商店があまり流行らなくなったこの時代でも、ごく身近に手に入れられる。コンビニだって本当は行かなくてもいい。このコンビニにも行かなくてもいいという考えをもっと広げると、この世の中で「便利なモノ」として挙げられるモノのほとんどが実は必要のないモノばかりなのに気付く。その「便利だけど必要のないモノ」の代表がぼくにとってのパソコンなのだ。出来るなら家だって、クルマだって手放したい。あまりこういうことを考える人はいないかも知れないが、ぼくは20代の頃は浮浪者になりたかった。彼らのほとんどは、浮浪者になりたくてなっているわけではないし、なろうとしてなるものでもない。だが、それくらいモノを持たない生活に憧れていたのだ。

 50代半ばを過ぎて、またふつふつとモノを持たないことへの憧れが浮かんでくる。それはある意味死への憧れなのかもしれない。墓や位牌も持たず、存在が消えるような死に方がいい。だいたい死人にモノを持たせようというのは人間はどこまで傲慢なのか。少しずつ、そのような瞬間に近づけたらいいなと思っている。

上質な心を持つことの意味

 誰もが、木綿のシャツよりもシルクのシャツの方が上質だと思うだろう。軽自動車よりもベンツの方が上質だと思うだろう。田舎のアパートの一室よりも都会のマンションの方が上質だと思うだろう。中卒より東大卒の方が上質だと思うだろう。

 人々の思考の中には、優劣をつけて考える思考がある。それが自然な思考なのだと思う。いつも清潔なブランドのシャツを着たい。ピカピカの高級車に乗りたい。洗練されたマンションで暮らしたい。我が子だけはいい学校に進学してほしい。

 そこにある心はどうだろうか。シャツやクルマや家や学歴で心が変わるだろうか。

 そこには、経済的格差があるだけで、決して心に格差があるわけじゃない。シルクのシャツを着ていても、心が温まらない人もいる。ベンツに乗っていても、ロールスロイスじゃないと満足できない人もいる。マンションに暮らしていても田舎に暮らしたい人もいる。東大を卒業してもその意味を見つけられない人もいる。

 心を見つめた時、その心の穏やかさ、豊かさ、確かさを感じられるなら、それこそが上質な心なのだろうと思う。