2016年を振り返り

 このホームページの更新ができなかった2016年11月、12月は疾風のように駆けていったような気がします。

 2016年は、音楽ライブユニットぽんかん。が摩尼寺とつながったこと、これが何よりも大きなトピックでした。私たちは5月に縁があって、常駐しておられる居川敬信さんというお坊さんと出会います。ご住職は現在鳥取市立川にある大雲院と兼ねて住職をしておられるということで、ふだんはこのお坊さんがたった一人でこの寺の行事を執り行っておられます。出会ったその日にたまたま持っていたオカリーナを本堂で吹きました。音が雲のように天井に広がり、包み込むような響きがしたことを鮮明に思い出すことができます。ぼくは感動すると同時に、コンサートホールとは違う感覚に不思議さと軽いめまいのような浮遊感を感じていました。それでも二人で何度か訪れ、居川さんと話をしているうちに、谷口さんからここで自由な練習会をしてはどうかという提案がありました。

 ぼくが行っているオカリーナ教室の皆さんに声をかけて、10月まで5回の練習会を、本堂の奥にある如来堂で開催しました。摩尼寺については、中国観音霊場のホームページがありますし、ぼくのホームページの方でも詳しく書こうと思っています。

 谷口さんから、この如来堂で録音してぽんかん。のCDを作ろうという提案があったとき、漠然と童謡唱歌を収録するのかなというぐらいの考えしか浮かびませんでした。「ピアノは?電子ピアノ?」「オカリーナで?歌で?」考えがまとまらない中で、降ってわいたようにfacebook上の共通の知人であった吉田幹男さんという方から「こういう曲はどうだろう。」と大伴家持の歌に伊福部昭が作曲したという万葉五首の5曲の提案がありました。最初はどうしたらいいのか、イメージがわかなかったのだけれども、これまで、オカリーナと歌だけで演奏する曲目が既に何曲かあって、そのスタイルでやってみようということになりました。その後の機材の選定や録音の方法などの詳しいことはホームページの方に書くことにします。

智慧と道具の物語

 人類にとって、最初の道具は木切れだったり、石ころだったり、ごく身近なものだった。そんな遥かな昔から、人類は道具を使い、智慧を身に付けてきた。

 道具や智慧はムラなどの共同体、コミュニティーの中で共有され、大切に受け継がれていった。

 コミュニティーがまた別のコミュニティーと交流し、道具や智慧が広がって定着することで、文明を築いてきた。

 道具や智慧は、人々の心と結びつき、芸術や文化を育て、暮らしを豊かにしてきた。

 最初はごく単純な道具だった。それが、だんだんと高度になり、複雑なものが増えていった。それを使うための技術がもてはやされるようになった。

 人々が気づかないうちに、智慧は心を離れ、争いを始めた。

空想の散歩。ちょっと空っぽになってみる

 何も考えない。何も知らない。ただ感じるだけの存在としての、自分を想像してみる。生まれたばかりの赤子のように。光を感じ、ぬくもりや冷たさを感じる。風景はただ見えるだけで、意味を持たない。

 そうやって想像していくうちに、ふだんの自分が感じたままを感じているのではなく、経験や知識と思考を通して風景を見ていることに気がついた。頭の中にその経験や知識の付箋で書かれたメモのようなものがあって、即座に反応する。危ないと感じ、それを避ける。この付箋の一つ一つが元になって、どんなふうに行動するのかを決めている。そこに、確かな意識はあまりない。そして、その中で形作られる付箋のカタマリでしかない人間像を自分自身だと思っていた。

 好きだとか、いやだとか、ほっとするとか、こわいとか。自分の感情だと思っていることがらの多くは、実はこの付箋のメモのひとつの項目に過ぎない。

 びっしりと貼り付けられた付箋のメモを一度に剥がすのは無理だが、ときどき一枚一枚めくってみることは必要なのだろうと思う。

 空想することはいつでもできる。一度にぜんぶを空っぽにすることはかなわないことだが、何も考えない。何も知らない。ただ感じるだけの存在としての自分を想像することで、やっと本当の自分自身を知ることが出来るのかもしれない。